双極性Ⅱ型の呟きの行く先

双極性障害Ⅱ型の現役早稲田生。将来は不透明。

今日だけで2回目の更新になる。

というのも、何かをしていないと辛いのが現状だからだ。

 

 

ここ2週間で私の心身は大幅に削られた。

 

物事が考えうる最悪の結末を迎えたからである。

 

 

恐怖が私の心を支配する。

 

 

辛い。それに加えて少々の孤独。

辛い。自責の日々。

辛い。罪悪感を誰に認めてもらえようか。

 

 

もう望んだ結末を取り戻す事は出来ない。

 

後悔。落ち度。何もかもが棘に見える日常。

 

 

今日は風が強い。

日中の柔和な日差しは、日没と共に冷たい風へと変貌する。

 

冷たい風は私の居場所とも言える喫煙所にも吹く。

吸殻、土、落ち葉、全てを攫っていく。

 

今の感情が、風に攫われればどれだけ良い事か。

底のない、永久機関のようなフラッシュバックと負の感情がこびり付いて離れない。

 

 

それでも私は生きたい。

 

 

ただ、生きたい。

 

今はその思いだけが私を守る鎧なのだろうと、情けない、継ぎ接ぎの不格好なモノをただただ見つめている。

 

 

 

肉※閲覧注意

私の目の前には二つの袋がある。

猪と鹿の死体が入ったビニール袋。
それも何重にもビニールテープで巻かれていて固定されている。
袋の角には赤黒い血が溜まり、内側には水滴が張り付いている。

生きていたものの最後のなれの果て。
それまで生きていたことの証がビニール袋を見るにつれて想像させられる。

荷台に乗せる際には、もう冷え切った死体であるのに、
生温かさの錯覚が脳を支配する。
足の輪郭、毛皮の硬さ。
生が留められた形と死の触感。


穴を掘る。


まるで殺人の隠蔽をするかのような罪悪感と対峙するが、
これが人間であれば、この程度の罪悪感で済まないだろう、
と恐ろしい想像をする。

しかし現実、
この大きさの猪と鹿であれば10歳程度の人間と重さは変わらないのだろうと、
猟奇的な考えは止んでくれない。


穴を掘る。


何とも名の分からない植物は、こんな深くまで根を張るものなのかと驚く。
ムカデが掘り出される。土の色の変わり目が見える。

獣たちに適当な大きさの穴を掘ったところでナイフを取り出した。

およそこの国の日常では馴染みのない、
銀色の、錆一つないスラリとしたサバイバルナイフ。

ビニールを破る。
この程度の大きさのナイフでは何度も切り込みを入れなくては。
ビニールの葛が空中に舞う。徐々に蠅が集る。

破られたビニールから出てきた猪は、
生きていた時の姿とほぼ変わらぬ姿であった。
唯一違うのは、腹から臓物があふれ出していた事である。


あの黒い臓物は何かしら、等考えている内に腐敗臭が空気中に広がった。


マスクを通しても鼻に届く臭いに一瞬吐き気を催す。
ナイフの傷で腸が破れたのだと感づく。
それでも銀色のナイフを猪の腹を刺す。何度も、何度も。

臭いは消えない。蠅が本格的に集りだす。耳が蠅の羽音を捉える。

死の処理をした後、猪の死体に土を被せる。
臭いを物理でもって隠すかのように。

次には鹿を埋めなくては。そうして私は再び穴を掘った。

鹿の腐敗臭はそこまで空に広がらなかった。
破ったビニールから出てきたのは千切れた頭と胴体。

火かき棒で頭をひっくり返すと、また土を被せた。

さよなら、猪と鹿。
お前たちは時間をかけて、バクテリア、ウジに食われ骨になるだろう。
そして土の栄養となり、植物の糧となるだろう。

破れたビニールの角には依然と黒くなった血がたまっていた。

本来なら雨季の低気圧にやられて、調子が悪くなる6月。そして7月。

 

今年は降水量が少ないのか、曇り空は続くものの、雨の冷たさには触れずに済んでいる。

 

霧吹きのような小雨に対して、傘をさす者、ささない者がキャンパスを闊歩している。

私は傘を持ちたくない頑固さがあり、後者になるのだろう。

 

この時期は体調が崩れがちで、文字を読めなくなる事等ザラにあるが、今年はそんな状態に陥らずにいる。

 

本を読む事は大学に入って意識的にするようになった。いや、もっと前の時代にも興味の惹くものにだけは手に取るようにしていた。

 

しかし、大学生となって変わった唯一の点は、幅広い読書をするようになった事だ。

 

心理学を専門にしながら、哲学、社会学、教育学といった近似領域のものから、音楽理論に至るまで、趣向の幅は広がった。

 

世の中に本が溢れているのはもちろん、その数だけ思想が溢れているのは興味深い。

 

人間は本を読む。目的は何だろうか。

いや、きっと読者の数だけその目的も楽しみ方もあるのだろう。

 

私は一体何を楽しみ本を読むのか。

その問いに対してはきっと、私の知識に対するコンプレックス、そしてある種の強迫観念かもしれない。

 

それでも、やはり読書は楽しい。

 

孤独も気になる事のない、暇な持て余し方は今の内から確立しておくに越した事は無いだろう。

 

子ども

天気予報が頼りにならない時期である。

雲の切れ間から差すわずかな光を求め、この時期にしては珍しく外出が多くなった。

 

課題に追われていた忙しい日々も、今となっては遠い過去のように感じられる。

 

そんな日々を終え、一段落した今日。

ボランティア活動として、子ども達と水族館へ行った。

 

その水族館は海獣の類よりも、様々な海の魚が多く展示され、それぞれの色彩の違いに目が惹かれた。

 

海鳥の類も多く、私は空水両用のウミガラスに羨ましさを覚えた。一体、空と海の世界を経験できる世界とはどのようなものなのだろう。

 

子ども達はと言えば、彼らはそれぞれの世界観で持って海の世界を楽しんでいた。もっとも、外遊びの方が多くの子どもは望んでいたみたいだが。

 

子ども達のエネルギッシュな姿には、毎度驚かされるばかりだ。自分もそんな時代を経た事にも驚きである。

 

成人して以降、子どもの見る世界や意識をすっかり忘れてしまった。彼らに共感出来る面もあるが、それ以上に底なしの可能性に羨ましさを感じるばかりである。

 

大人と呼ばれる立場になった今。

本来子どもに苦手意識があったにも関わらず、こうして対等な遊び仲間になっている。

 

理解の出来ない存在として決めつけていた過去に比べれば、理解しようという意思を持つのは大きな進歩のように思っている。

 

将来、子どもに関わる職につくかもしれない事を考えると、この経験は今後も大事にしていきたい。

 

さて、考えのまとまらない駄文になってしまった。

 

疲れた後のアイスコーヒーは美味い。たとえ空が雲だらけの憂鬱な日だとしても。

 

 

海底

雲から差す光の束は、薄明光線というそうだ。
雲の切れ間や端から光線が放射状に射すこの現象は、
別名として天使のはしごともいうらしい。


しかしこの強い光線すらも、深海には届かない。
ましてや海底にまで届くこともない。
そもそも、深海の定義は太陽光が射さないのだから、当然とも言える。


少なくとも私個人にとっては、
双極性障害躁状態は、太陽光と深海の関係に似ている。


インスピレーション、アイディア。
こういったものが私の脳の底にまで届く瞬間、時期があり、
本来なら光の射さない深海は、一時的に光が射して青みが増す。


しかし現実は、それは極の端に触れている状態なため、
薬物療法などで波を抑える事が治療の主流となっている。


現在、私の頭の中にはもうあの強い光が射し込むことは無い。


だが、これは医学上においても、現実の生活においても良い事なのである。


誰が感情や気分の荒波に身を任せたいと思うだろうか。
これは良い事なのだ。


この平々凡々とした新たな自分もまた自分なのだ。
そう言い聞かせても、
私は光のない海底を、底も見えない海の暗さから目を逸らすことが出来ない。


天使のはしごはもう私を導くことは無い。
深海を行くには自力で方向を見極めなければならない。


こんな明暗のコントラストが弱まった日々の中。


食べて、寝て、起きて、そんな時間を繰り返し過ごす事だけが
今の私の限界なのだろうと思う。

憩い

桜はあっという間に散り、緑の鮮やかな葉だけが生命力たくましく残った。

 

大学の灰皿スタンドまで枝を伸ばし花をつけていた桜の木も、今では枝の先まで葉がびっしりと生えている。

 

私の大学にはいくつかの喫煙所があるが、この場所が私の居心地の良い居場所となったのは、つい最近のことである。

 

授業の合間に一服すると、よく友人と遭遇するこの場所は、ある種憩いの場と化していた。

 

その心地良さから、針金が剥き出しになっているフェンスを背に、石段に座りながら本を読むようになったのも、最近では日常となっていた。

 

大学に入ってから、友人に恵まれたのは明らかだった。

 

今までは孤独の寂しさを知らなかったのか、あるいは麻痺していたのかは知る由もないが、孤独が痛いと感じるようになったのも、大学に入ってからの事であった。

 

個性の強い人たち。そして、それぞれに頭の良さがある。

 

私は彼女たちを尊敬している。彼女たちと言葉を交わすのは、私にとっては大切にしたい時間だ。

 

だから、私はあの喫煙所すらも愛おしい。

 

灰皿スタンドがあるのにも関わらず、吸い殻が数々落ちている事も、

何故か貝殻や流木が横たわっているあの土の山も、

砂利の入った麻袋が積み上げられている光景も、

 

そして、針金が剥き出して錆が見えるあのフェンスも、

 

私にとっては全てが愛おしいのである。

 

 

 

 

 

文字

一時期の忙しさが嘘のように、ゴールデンウイークがやってきた。

 

地上に着地することもないたんぽぽの種子のように、地につかない日々を過ごしている。

 

最近の低気圧は特に自分には厳しく、白と黒のコントラストがチカチカして文字すら読めない日が続いた。

 

私にとって文字は重要だ。

情報と自分をつなぐ重要な媒体である。

 

風に吹かれれば飛んでいきそうな、明朝体だって私にとっては大事な情報源なのだ。

 

外国語の勉強をしている時ですらそれは同じだ。

未知の世界に私を繋いでくれる。

 

本もニュースも外国語も、友人からのメッセージすら、私たちは文字に支配されている。

 

 

ディスクレシアという症状がある。

限局性学習障害とも言われるこの症状は、文字を読むことに困難を覚える障害だそうだ。

 

その困難の質や量は人によって違い、同じディスクレシアでも症状は異なる。

 

文字の読めない世界を我々の多くには想像し難いだろう。しかし、現実には存在するのだ。

 

私もまた、文字のない世界を想像出来ない一人だ。

 

だからこそ焦る。

世界や現実に繋がる糸が切れてしまったかのように感じるのだ。

 

恐らく調子が悪いとはこういうことなのだと思う。

 

文字の読めない時期というのは存在する。

でも未だにどう対処すべきか、いや、どうこの時期を過ごすかが確立していない。

 

結局私は文字に囚われ続けている。工夫を知らないでいる。

 

文字に変わるものを見つけたい。文字のない世界でも得られるものは必ずあるはずなのだ。

 

元号も令和に変わった。

今後は、文字に囚われない素晴らしい世界を知りたい。

 

"見て"知るものは文字だけではないはずだ。

 

 

今、ベッドの目の前にある本棚に積み上げられてる本は、私の強迫観念を表しているようであった。