双極性Ⅱ型の呟きの行く先

双極性障害Ⅱ型の元早稲田生。何をこなすのも下手。

痛い。

左手の傷を見る度に、

馬鹿なことをした、と後悔する。

 

きっかけは愛をめぐる、病的な認知と行動。

ただそれだけであった。

 

人を愛し、人に愛され、

愛し合う関係になればなるほど、

何故距離が遠くなり、痛みが伴うのだろう。

 

思いやるが故にすれ違う現実のギャップ。

私はその埋め方を知らない。

 

傷だらけの体と心になっても、

ひたすら愛への信仰を忘れない。

 

自分を犠牲にした愛。

それは盲目、愚直と言えるのかもしれない。

 

愛は如何程にも素晴らしい、得難いものだと刷り込まれてきた。

 

そして悟った。

想像の内に存在しているからこそ、

愛は輝いているのだと。

 

私にとって愛は奢侈品。

それも手が届くことはない。

 

鞄や服とは違い、金で買える事もない。

尊くて、時々清純の影に見える汚い俗らしさ。

 

或いは、

禁断の果実とも喩えることが出来るかもしれない。

 

覚えてしまったが故に、忘れられなくなってしまったもの。

得てしまったが故に、手放せなくなったもの。

 

愛で溺れ死ぬこと、すら望んでいるのかもしれない。

 

しかし、現実は空回り。

自分の身体に残ったのは生傷だけである。

 

愛されたいなら、愛しなさい。

という言葉を聞いた事がある。

 

盲目になっている私の視界には、

本当に愛する人がいるのか、はたまた自分だけがいるのか。

 

私が本当に愛しているものは、何なのだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

幸福

日常は幸せなのだろう。

生きていく事は幸せなのだろう。

四肢を自由に動かし、心をもって自由に表現する。

なんて幸せなことなのだろうか。

 

さて、これは建前である。

 

業が追ってくる程欲深いのだろう、私は。

アイスコーヒーの氷水をすすっては旨いと

自分を騙している。

 

まやかしだ、何もかも。

一時の思考の過ちと感情の波に身を任せた。

その結果だ。

 

誰を責められる。すべて私の責任ではないか。

 

生きて、死を見て、死にたくなって、生きている。

 

手にいれたいもの程手に入れられないのは当然の事。

それが人生だと何故気づかなかったのだ。

 

それこそ私の絶対的な宗教として立ちはだかる、虚しき憧憬ではないか。

 

神が何を考えているかなど知る由もない。

でも知りたいと願うのが、残酷な人間の性ではないか。

手の届くはずもない、残酷な願望だ。

 

私は幻影に囚われ続けている。

 

切り離したくても迫ってくる影。

私が存在する限り存在する厭わしき存在。

 

邪魔。見たくない。

 

絶対も永遠も存在し得ないのだ。

色即是空、空即是色。

 

圧倒的絶望間の前に今出来る事。

それは少なくとも泥水をすすること。

 

屈服することが出来ないのであれば、

群れから離れ、余生を全うすること。

 

はみ出しものの流儀は、大層れたものではない。

それが私の本質と生き方なのかもしれない。

 

 

混沌

この頭の中のカオスは何と表現したらよいだろうか。
双極の混合状態とも言いづらい。
何故なら感情は伴っていないからである。

思考の浮上、沈殿、その繰り返し。
泡となって浮かんで消える、その繰り返し。

バグ?エラー?
誰が教えてくれるものか。


言葉が、文字が、
脳の宇宙空間をさまよう。

脳を食う文字、巣食う文字。
掬う手。非力にも零れて落ちる。

創造。一瞬にして砂の城が出来上がる。
のち、その脆弱さが故にさらさらと崩壊する。
視界は砂をさらさらと認識し、
触覚が認識するのはまとわりつくじゃりじゃりとした感覚。

気持ち悪い。

脳に広がり続けるコスモごと吐き出せないものか。
大脳皮質に癒着している、形のない概念、想像、幻想。

あるいは酸素不足で窒息させるか。
この広大な空間を壊すためだけに。

こんな状態にあって、
不思議と身体を浮かび上がらせる心地よさは皆無だ。


どうやらこんな混沌にあっても、言葉の文法は正しい。(と思われる)

救う文字、言葉。

その規則性にただ安定を求め、
膨張する宇宙を眺める、ただの一日常。

人間の欲は底無しだ。

欲しくなって、得て、欲しくなる。

この無限ループと言っても良い。

 

私は欲しい。

自分が得ることの出来なかった過去の遺産。

得られないと諦めていた未来の至宝。

 

欲は目を眩ませる。

私の願いは願えば願う程、

いや、願ってしまった時点で叶わない。

 

それでも、人間の性分が顔を出す。

その醜さに対し罪を感じる自分も。

 

小さな幸せの連続が、私の生を繋いでいる。

それだけで私には十分過ぎた事。

 

沼地と化しつつあった池で、水を求めもがいていたあの頃。当時と比べれば十分幸せではないか。

 

言い聞かせる自分、時々反抗する自分。

板挟みで苛まれる自分。

 

幸せであるが故に苦しい。

幸福と苦痛とはその実、表裏一体なのかもしれない。

 

傷口は表面上閉じていく。

それと同時に皮の奥深くまで傷の根を下ろす。

 

心まで、心臓まで届かなければそれで良い。

 

春のような日差しが、

コートの、服の下の肌に突き刺すようであった。

 

 

 

 

弱音

さて、更新が多くなるのは

悩みが肥大化しつつある兆候である事は

私が一番よく知っている。

 

人間やらねばいけない事が増えると

思考のネットワークを活性化させ、

リソースをフル活用せねばならない。

 

そうしてしまうと、必然的に意識上から溢れていた自身の眠る問題に直面化し、困惑を覚えざるを得ない。

 

 

正にこれが現在の状況である。

 

 

吐くべき弱音を飲み込むように、アイスティーを飲み込む。

吐くべき弱音を一つずつ消化するように、タバコの煙を吹かす。

 

ただ進むしか無いのだと自分に言い聞かせ、その実、歩む足取りは遅い。

 

しかし、忘れたいと思う事はない。

忘却は自身の初期化と感じるからだ。

 

 

ただ、引き摺りながら、歩む事。

 

 

生きる、その行為としての連続はこのようなものでしかないのだろう。

 

例え問題に直面化しても、必死に壁にしがみつきながら、無様に登る事が、矮小な人間の姿なのだろう。

 

ただ一度きりの人生の大切さは、至る所で啓発されている。

 

壁に阻まれる人生。

登るか、はたまた穴をあける越え方もあっても良い。

狡い奴と蔑まれても、同様の壁に再び阻まれる事への恐怖心を煽られたとしても。

 

歩むしかない。

越える時分が来て、能力が備わった時に巨大な存在を克服するのを待っても良い。

 

生きる事はわからない。

自分の事もわからない。

 

手探りで進む不器用さでしか、私はこの世界を生きる事が出来ない。

 

諦めの言葉だけは吐きたくない。

 

土に汚れた黒い革靴を磨いて外に出る日々が、

また今日も続く。

 

 

 

哀情

この感情に名前をつけるとしたら、何と呼ぼうか。

いつからか、泣きたいと思っても泣けなくなった自分がいる。
どれだけの悲しみも、ただの重りとなって、
脳を地に落とすような感覚。

感情が浮上しない。
抑うつ状態となり、思考の抑制が起こるものの
不思議と悲しみの感情は湧き上がらない。


最も印象的だったのは、哀惜の感情すら湧き上がらなかった事だ。


私は10代の内に近しい人を失った事が二度ある。

一人目は祖父、二人目は父。

こうしてみると父の死の方がよほど、哀惜の念に堪えないように思われる。
しかし事実は異なる。

父との暮らしが断片的であった私にとっては、
継続的に近くに寄り添った祖父の死の方が余程悲しみに暮れたものであった。

一方、父は。

本音を吐露するのであれば父は、軽蔑、憎悪の対象でしかなかった。
それらエピソードを語るには、
文字数を徒に消費するだけであるため省略とする。


しかし、私の人間らしい正常な感情に影響を与えたのは、
父の死である事も間違いなかった。


悲しみも、軽蔑の対象が消えた喜びのどちらも湧く事は無かった。
伝えるべき事を伝えなかった悔しさも、無力感も感じる事は無かった。

確かに存在したのは心の防衛、分厚い壁が聳え立つ、それだけだ。
この頃に私は双極性障害者として生きる事になったのは、間違えるはずもない。


父は遺産を残した。
借金は消えた。憎悪の存在も消えた。
形のない遺産は私の脳に、確かに刻まれていった。

悲しみは湧くことすら許されないものになった。
人間の、生存戦略としての感情の一つを私は失った。

哀情の喪失、それ自体に悲しみが湧く事すら無い。


私は陰鬱な音楽をしばしば聴く。


それはまるで自傷行為のように。
悲しみを湧き起こす儀式の様に。

正常な人間になりたい、と願い、
生きて、食べて、寝て。
ちっぽけな生存戦略を取り戻したいと願うのであった。

知識

知識は最大の武器である。

 

これは格言といったものではなく、

身をもって体感した身近な言葉だ。

 

私は自分の知識の偏りと不足に、

コンプレックスを抱いている。

 

自分の脳で処理しきれない知識は、

ぬるりと水を滑る油のように落ちていく。

 

概念を獲得しても口から溢れるのは平凡な言葉。

平凡な話者の平凡な世界観。

 

正規分布の山から見下ろしているはずでいて、

その実、降りることの出来ない自分への恥、無力感。

 

平凡さへの恐怖は一体どこから来るのだろうか。

 

恐らく平凡さではなく、考えを止めることが私は恐ろしい。

しかし、それと同時に考えを常に巡らせる事は、

双極の波を悪化させかねない。

 

羊使いに飼い慣らされる羊のように、

柵で囲まれた生き方をする程、私の性分は穏やかではない。

自分の思考を相手に委ねる程、忠誠心もない。

 

柵を壊すため、大草原を駆け抜ける手段としての知識が、

私は欲しいのだと思う。

 

それでも現実は悲しいかな、

柵は壊せたとしても、飼い慣らされた羊の習慣が身に染みて、

自由を獲得できないでいる。

 

大草原をいざ目の当たりにすると、途方に暮れ、

どこに行けば良いのか分からないのが現状である。

 

 

経験が知識を規定する事があるのなら、

知識が未来に積むであろう経験を規定する事もあると私は信じている。

 

 

自由を手に入れたいのであれば、

その目的のため、推論を働かせる土台としての知識が

やはり必要なのではないかと思う。

 

 

そんな信念を抱えながら、

今は私の脳を制御する小さな錠剤すら恨めしく、

しかし、

錠剤に頼らねば歪んだ現実に蝕まれる自分の脳の脆さに対峙した、気がした。