うつ病と心理学と自分

双極性障害Ⅱ型の現役大学生。将来は不透明。

コミュ障と思い込むのをやめた話

こんばんは、私です。

 

 

今の今までこのタイトルを思うに至った経緯を具体的に書いていたのですが、何となく漂う恨みがましさに辟易し、簡潔に書こうと全文消した次第です。

 

本題ですが、私たちの言うコミュニケーションって一体何を指しているのでしょうか。

 

万能なWikipediaによると、 

コミュニケーション(英: communication)もしくは通信(つうしん)、交流(こうりゅう)とは、
社会生活を営む人間の間で行われる知覚・感情・思考の伝達[1]。
(生物学)動物個体間での、身振りや音声・匂い等による情報の伝達[1]。

との事。しかしこれらを不十分として、

一般に「コミュニケーション」というのは、情報の伝達だけが起きれば充分に成立したとは見なされておらず、人間と人間の間で、《意志の疎通》が行われたり、《心や気持ちの通い合い》が行われたり、《互いに理解し合う》ことが起きて、はじめてコミュニケーションが成立した、といった説明を補っているものもある [4]

と補足がされています。

 

まぁ、そうだな。 っていう感じですよね。

 

ただ、これに沿うなら意思の疎通や心や気持ちの通い合いって皆一様ではないと思います。百人いれば、百人のコミュニケーションスタイルがあり、重なる部分が大きいか小さいかの違いがあるだけなのではないかと。そしてコミュニケーションは関係を作るものであり、関係に依存するものでもあるのではないかとも。

 

お互いの好きな事ばかりをたくさん共有しあう関係、友達だろうが恋人だろうがお互いを知りたくて一緒にいる関係、辛さを分かち合う関係、ただ話し相手が欲しいだけの関係、利益の為につきあう関係、共通の敵がいる関係…

 

もちろんこれらは重なり合っていると思いますし、その他にも様々な関係があると思います。

 

何を求めてコミュニケーションをとるのか、何に基づいてコミュニケーションをとるのか。"コミュ障"は自分と相手のこの二つの考え方のズレから生まれているんじゃないかと漠然と感じます。つまり個人と個人が対して、コミュニケーションのスタイルが異なる時というのは、自分だけではなく相手もコミュ障が生じたのだと言えるのではないでしょうか。

 

しかし、この相手が"会社"だったり"社会"にすると、途端に自分だけがおかしな、コミュニケーション障害になってしまいます。

 

相手を会社なり社会にあてはめたとして、それを個人個人の要素に分解した時、本当に自分は個人全員とズレが生じていたのか冷静に考えてみると、大体の場合は違うのではないかと思ったりします。どんなに人と喋るのが苦手な人でも、比較的話しやすい人、話しづらい人っていうのは必然的に出てくるような気がします。

 

自分がコミュ障だと思う時、それは大抵相手方に集団を予測しているからではないのでしょうか。

 

そもそも集団と個人が対等なコミュニケーションってとれるのでしょうか。

 

個と個と個…こうした個人の繋がりという関係を前提にする場合コミュニケーションという言葉はピンとくるのですが、"集団と個"という構図にしたとき、どうしても私はコミュニケーションという言葉ではなく、適応という言葉がふさわしいのではないかと感じてしまいます。

 

この適応という言葉に、"意思の疎通"、"心や気持ちの通い合い"という意味合いは含まれているのでしょうか。私はどちらかというと、一方的な意味合いを感じてしまいます。

 

眠気も出てきた中長々と書き連ねましたが、結局、集団に属するというのはその内々でのコミュニケーションも必要ですが、自分の意思主張が制限される"適応"も必須な要素の一つ。そしてこれは双方の意思を前提にするコミュニケーションとは、性質が異なっているのだから、通じない事はむしろ自然な事だと思った方が良いのかなと最近思うようになりました。それは単純に"仕方ない"事であると。

 

ただ、色々な場所において適応できるというのも強みであるのも確かですね。

でも適応できなかったからと言って、自分の"障害"として抱え込む必要まではないんじゃないかと、無責任にマックのMサイズポテトを頬張りながら、昼時に考えていた一日でした。