うつ病と心理学と自分

双極性障害Ⅱ型の現役大学生。将来は不透明。

自己表現とストレス

自己表現と聞いて皆さんはどのような想像をされるでしょうね。

服装、言葉遣い等は表面的ではありますが自己表現の内の一つであり、

一番日常に隣接していると言えるのではないでしょうか。

自己表現ってなんぞや

私的にはその個人の素直な感情・思想・思考を他人に伝わる形にしたものと思っています。
そして、それは音楽や絵といった芸術と呼ばれるものから、ダンスといった身体的技法・表現も含まれる所が
人間であり、興味深いなぁと思うのです。

何故なら人間は解釈する生き物だからです。

つまり、それは他人へ表現を送信したところで伝わらない、
或いは意図した伝え方と異なるという事がありうるという事であります。

そしてこの特徴ゆえに、人間は自分の素直な感情の顕示欲と共に
その方式を無意識下、意識下で考察し選択します。

しかし、ひねくれものという言葉に表れるように、人間は表現方式を選択できる潜在能力があるにも関わらず
上手くいかないという事が往々にしてありますね。

これがきっとストレスの生まれる原因なのだと思うのです。

顕示欲と表現方式はかみ合わない事もある

顕示欲が強ければ強い程表現方式の選択に誤りは少なくなるのかと問えば、
そうはいかないというのが残念ですが答えなのでしょう。

分かりやすいのは"怒り"でしょう。 
この感情の自己表現というのは、他人にとって許される表現方式の限度を誤る事が多い。

多感な年ごろの息子を持つ一家の壁の穴。妻を感情のはけ口として利用する夫。
これらは容易く想像できるのではないでしょうか。

なぜかみ合わないか。

それは自分という個人の外界には社会という自分の規定したもの以外のルールが
幾重にも存在するからなのではないでしょうか。
ルールというのは秩序であり、法であり、慣習であり、…というように様々な換言が可能ですね。

要するにルールそれ自体が個人にとっては多義的で手に余るものです。

我々はそこに他人がいれば、ルールという見えない糸が絡まっているようで実は絡まっていない
そんな社会および世界に晒されることになります。

これが表現方式の抑圧、並びに誤りを生み、ストレスにストレスを重ねる原因になりうるのではないでしょうか。

自己表現は社会との折り合いでもある

最近私はこのようにして、自分の自己表現を定義しました。
何故なら社会を気にせず自分の気ままに表現方式を選ぶ事は、社会の逸脱、究極には人間の逸脱でもあります。

使い古された言葉によると、人間は社会的生物とも言われているようですね。
ならば生きている限り、社会が人間から構成されているのと同時に、人間は社会に頼らざるを得ない。

ほうほう、なら生きたければそこから逸脱するのは賢くない選択と言えそうです。

であれば自己表現の形式を確立させ、その強度をTPOに合わせて変えていく。
我々はこの事を意識上に浮上させ、自分の意思にて選択できるようなスキルを身につければ
ストレスは解消できるのではないでしょうか。



最近どこから拾ったかも分からないストレスを捨てられない自分への戒めとしましょう。