双極性Ⅱ型の呟きの行く先

双極性障害Ⅱ型の元早稲田生。何をこなすのも下手。

所在無さ

正午12時に起き、シャワーも浴びてなかったため、
今日はなにも出来ない日か、と思いつつ
"勉強"をお題目にカフェに行った。


1日の最低限の目標である問題一問をこなしたものの、結局熱することもなく、そしてなにも考えず、
ぼやっと時間を過ごしていたために現在に至る。


大学の休暇期間は長い。
だからこそ留学に行く人、バイトに精を出す人、
就活に精を出す4回生、そこに私は含まれていないが、
などがいる。


時間をどう使おうかは、あからさまに人に迷惑をかけない限りで自由だ。
だからこそ正解はなく、所在無さを感じることが多々ある。
友達と呼べる人はありがたいことにいる。
彼女たちと一緒に出かけることがあっても、頻度としては少ない。


一人の時間をどう過ごすかは、毎日、それも毎秒迫ってくる課題だ。
私は多くの時間を、外国語の学習と読書をして費やすために、意識しなければ、外に出ていく必要性が基本的にない。
石の下に巣食うダンゴムシのように、私の巣は陽の当たるところにない。


気まぐれに外へ出ていくと、人間の関係性や反乱する情報が目に見えない電波のように、絡まりながら存在するように感じられる。
そして、その中に組み込まれていない、自分の存在も。


どう過ごすか、はどう生きるか、の問いに合致しないものの、類似の解を与えることができるだろう。
しかし、私の解は現実にはまだ適合しない、途中式のままだ。


日陰者は、陽に出るために適応させていかなければならないのか、と思った矢先、
"日陰で育つ花"の存在を思い出した。
誰がいつ言ったのか思い出せない、しかし何故か覚えているフレーズ。


いつもの癖で調べてみるも、中々様々な種類がある。
そして、これらは日陰"でも"育つという表現がなされている。


ならば、なるほど、私はこの花のように生きよう。
日陰でしか育たない花がないのなら、日陰でも育つ、時たま陽にあたることもある、そんな存在になる。


そう言いながら、再び外に出たのはこんな深夜。
踊り場に捨ててあるビニール傘が、風になびいているだけであった。