言葉
言葉が好きだ。
人々が紡ぐ言葉が好きだ。音声、文字、媒体は様々ある。
外国語が好きだ。
一つの言語の総体、体系のネットワークを眺め、潜るのが好きだ。
しかし、
私はこの言葉に対する好きという感情に、
論理的な根拠を与えることが出来ないでいる。
何故私は言葉が好きなのだろうか。
好きと言う事実に対する因果が、どうにも私には上手く説明が出来ない。
言葉は世界にアクセスする手段であるから。
どうもこの説明が一番腑に落ちるように思われる。
例えば、
文学という世界にアクセスするのにも言葉は必要である。
そして、外国という物理的に離れた国にアクセスするにも言葉は必要である。
どこをとってもマクロな世界、ミクロな世界にもあらゆるネットワークは存在する。
私は膨大な宇宙空間のように広がり続ける世界に繋がる手段として、
言葉が好きなのだと感じる。
言葉は私の身体の延長である。
そう、言葉は私にとって身体の一部なのである。
音声を作り上げるプロセスとしての音韻論といった複雑なものではなく、
至ってシンプルな答えだ。
私はこの身体の一部を自由に動かし、限界に挑戦していきたい。
言葉という部位を様々な世界に触れさせ、
他の感覚で以ってその世界を体験したい。
言葉は自由だ。制約が存在したとしても。
言葉は存在を構成する。名もなき物に遭遇したとしても。
しかし、
どうやら現代において語学の価値は減少傾向になる事が予測されている。
AIの発達による自動翻訳機への期待がこの説を支持しているらしい。
それでも私は言葉について考え続けるだろう。
10年、20年、50年経ったとしても、
私は言葉に向き合う事でしか、
自分の存在と世界の繋がりを体感する事が出来ないのだろう。
そして言葉で以って私という存在を表現する事しか出来ないのだろう。