弱音
さて、更新が多くなるのは
悩みが肥大化しつつある兆候である事は
私が一番よく知っている。
人間やらねばいけない事が増えると
思考のネットワークを活性化させ、
リソースをフル活用せねばならない。
そうしてしまうと、必然的に意識上から溢れていた自身の眠る問題に直面化し、困惑を覚えざるを得ない。
正にこれが現在の状況である。
吐くべき弱音を飲み込むように、アイスティーを飲み込む。
吐くべき弱音を一つずつ消化するように、タバコの煙を吹かす。
ただ進むしか無いのだと自分に言い聞かせ、その実、歩む足取りは遅い。
しかし、忘れたいと思う事はない。
忘却は自身の初期化と感じるからだ。
ただ、引き摺りながら、歩む事。
生きる、その行為としての連続はこのようなものでしかないのだろう。
例え問題に直面化しても、必死に壁にしがみつきながら、無様に登る事が、矮小な人間の姿なのだろう。
ただ一度きりの人生の大切さは、至る所で啓発されている。
壁に阻まれる人生。
登るか、はたまた穴をあける越え方もあっても良い。
狡い奴と蔑まれても、同様の壁に再び阻まれる事への恐怖心を煽られたとしても。
歩むしかない。
越える時分が来て、能力が備わった時に巨大な存在を克服するのを待っても良い。
生きる事はわからない。
自分の事もわからない。
手探りで進む不器用さでしか、私はこの世界を生きる事が出来ない。
諦めの言葉だけは吐きたくない。
土に汚れた黒い革靴を磨いて外に出る日々が、
また今日も続く。