双極性Ⅱ型の呟きの行く先

双極性障害Ⅱ型の元早稲田生。何をこなすのも下手。

再起の回想

おねえさーん、たすけて…



2020年の年明けだった。


私は精神科病棟に救急搬送された。


オーバードーズを起こしたのは二度目、救急搬送も二度目だった。


一度目の際、俄かに口から管を通され、人生初めての胃洗浄をした。
あの苦しさだけでも、もう二度と同じ過ちを繰り返すまいと思ったのであった。


が、実際は二度目を起こしてしまった。


二度目は点滴にて、薬の血中濃度を下げるという処置のおかげで、
苦しい思いをせずに済んだ。


しかし、暫く聴覚に異常をきたし、
他人の声や音楽が通常よりも低く聴こえ、認識が難しいという症状が起こった。


オーバードーズの代償、その回復は早かった。
しかし、精神は身体の回復程早く快方へ向かわなかった。




精神の波長なるものがあれば、その振れ幅が大きかった当時、
私を物理的に閉じ込めたのが精神科病棟であった。



搬送された際は個室に通され、私は無を貫き通した。
いや、貫き通したというよりも、そうせざるを得なかった。


ベッド、点滴、閉ざされた窓、デスク。


物、オブジェクト。
刺激の極力排されたその部屋で私はひたすら横になり、
脳を活動させないようにする他なかった。


病院食は美味しかった、ように思う。
脳が活動しないのか、何なのか、
当時の私は食事の楽しみを感じられなかった。



点滴を付けているものだから、
同じ姿勢を保ち続けなければいけず、
右腕が痛くなって動かすのが辛かったことを今でも覚えている。


また点滴を打つ際には、
看護師が私の切り傷だらけの腕に、
容赦なくアルコール消毒をゴシゴシと施すので、痛かった。


その容赦のなさ、
業務に慣れて感覚の麻痺した”仕事ぶり”はむしろいやに面白かった。



搬送から2日ほどが経ち、点滴が外れた頃、
私は複数人が入院する大部屋へ移動となった。


たまたま移動の際に居合わせた、一人の患者と挨拶を交わした。
私は誰とも会話をしたくなかったものだから、
それ以降は患者の誰とも会話した記憶がない。


起床7時、朝食、自由時間、昼食12時、自由時間、夕食18時、就寝21時。


これが入院生活の基本ルーティンだった。


救急搬送だったため、何も暇つぶしの道具を持っていなかった私は、
1日中ベッドで横になっていた。
そしてたまにスマホで音楽を聴く程度。
もちろんバッテリーの残量は気にしないといけなかったので、
ずっと音楽を流したままではいられなかった。


食事は少し苦痛だ。
生きないといけないというころを突き付けられる時間だからだ。


加えて、個室で食べようがホールで食べようが自由であるが、
どっちみち一旦ホールに出向いて、
自分の分の食事のトレーを取りに行かねばならない。



人前に姿を晒したくない、というか、存在を消したかった当時の自分は、
食べる、人前に姿を現すということが二重苦であった。



4日ほどが経ち、私は初めて外出申請を行った。


別に逃げるつもりはなかったが、
無為に時間を過ごすのが苦痛になってきたため、
自宅に戻って暇つぶしの道具を取りに行った。


文庫本、語学書、バッテリーケーブル。


自宅に戻った時にこっそりとタバコを一、二本ほど吸った。


この頃には、しばしばホールに出向き、
大画面のテレビでニュースを見ることが出来るようになっていた。


しかし、この気分転換もすぐやめることとなった。


高齢の患者の一人の呟く、独り言、いやあれはうわ言になるのだろうか、
がやけに痛々しくて、ホールにこだまするのであった。


おねえさーん、おねえさーん、おねえさーん…。


もちろん、誰も反応などしない。


刻一刻と流れる日常の一部になって、
どこでもないどこかに吸い込まれていくような言葉から、
私は自分の耳を守ろうと思った。


おねえさーん、たすけて…


私は私に閉じこもるしかない。


私の身体が現在、物理的には精神科病棟に封じ込められていたとしても、
精神や思考は、結局自分の中に閉じこもるしか守る方法はないのだ。


それでも、当然かな、私のような考えの患者だけが全てではない。
精神科病棟でコミュニケーションが存在しないわけではない。



ある日の夕食の時であった。


中年の男女の語気が熱を帯びていく様を目の当たりにしたことがある。


会話の全容は知らない、断片的に聞こえたのは、


女だからと言って―。


というような反論の語調であった。


私は早々に自分のベッドに戻ろうとした。
ホールにいた患者の注目は、中年の男女にあてられた。



看護師がかけつける。


”どうかしましたか?”



丁度一週間も経つ頃に、私は退院した。


退院日に見上げた空の青さは今でも覚えている。
退院日に感じた冬のピークを越えたキリっとした肌寒さも覚えている。


身体は回復した。


しかし精神は、
”一人で生活の諸々を行える”水準まで回復していた程度だった。


長距離歩くのが不思議だった。地面の感覚はこんなに固かったかとも思った。


駅に近づくと聞こえてくる、アナウンスが新鮮だった。


自宅に帰ると静寂が私を迎えた。何もなかった。
救急隊員が駆け付けた時のままであった。


部屋は変わっていなかった。しかしそれは私も同じ。


それでも、今の自分がこの世界で動くことが出来ているのは、
この経験を恥じ、ひいては黒歴史とすらみなしているからなのかもしれない。


人生ゲームでいう「もう一度スタートに戻る」だ。


次こそは、三度目など見たくない。


再起には成長が付きものであってほしいと願うばかりだ。