双極性Ⅱ型の呟きの行く先

双極性障害Ⅱ型の元早稲田生。何をこなすのも下手。

「死にがいを求めて生きているの」

これは朝井リョウ氏著作のタイトルである。


読書感想文は好きじゃない。
人に好まれる文章をあれこれ考えるのは性分に合わないものだ。

しかし、この一冊をとって感じたことを、ここで書き留めておきたいとも思う。

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私がこの本を通して感じたのは、平成も終わりを迎えつつある中で、
この時代における人々が、特に若者の、無意識的あるいは意識的に抱える
強迫観念を明確化したということだ。


それは、つまり自分が生きていく上での軸が求められる社会との
闘いでもあるように感じた。
自分の信念やそういった軸というものが、どれ程のものか
試されている過程でもある。


また、多様化された社会での個人のあり方を
改めて問われるようであった。


生きがいや個性といったものは、多様化される程良いという理想のもと、
そこにしがみつくことそのものが、生きがいになっているという
ある種の皮肉を感じぜざるを得なかった。


そしてタイトルの通り、先にあるのは自滅そのものである。


生きていく上での必死にしがみついた先には、何もないということが
現実として突きつけられるようなそんな一冊であった。

忙しさ

桜が満開になるのは早い。

そして気づけば春一番に吹かれ、道路が花びらで覆われる。

 

そんな桜のように、満開になっては吹かれる、慌ただしい時間を過ごしていた。

 

通常の就活を断念し、試験を終え、そしてまた試験に追われている。

そして気づけば2日後には新学期が始まる。

 

暇を求めながらも、やることが無くなると時間をもてあます。双極の波をコントロールするには、この性分すらコントロールせねばならない。

 

この一年は正念場だ。

 

それは卒業がかかっているからというだけではなく、自分という機体をどう制御していくかという闘いでもある。

 

忙しさを乗り越えるために120%の力でもって挑むのではなく、80%を保っていく。

 

桜や向日葵のように、季節を待って咲き誇るのではなく、常緑植物のような強かさを備えたいものだ。

 

 

先輩

13,14時に起きることが習慣化されつつある。

季節の節目が不思議ともたらす、だるさは相も変わらず、

シャワーを浴び、化粧をし身支度をする。

 

昨日は所属するゼミの送迎会だった。

 

卒業式を控える四年生にお祝いの言葉と、小さな花束を手向けた。

4月が始まれば、彼・彼女らはもういない。

 

一人の先輩が、私の体調と取得単位についてとても心配してくれた。

以前より、障害を持つ私を人一倍気を使ってくれた人だ。

そんな彼も、四月からは社会に出ていく。

 

ゼミには新3年生が仲間入りとなり、私は形式的に先輩になる。

先輩を持つ立場は今まででずっと慣れてきたが、自分が先輩という立場になることは、

なぜだか現実的でないように感じて、考えたことがなかった。

 

上の立場になることを避けてきた、と感じる。

自分は一定の方向で課題を進めるよう、提案をすることは出来るが、

それは対等な関係の場合であって、

リーダーシップはなかなか発揮できずにいる。

 

就職活動においても、リーダーシップというのは資質として問われる事がある。

 

私は上に立つ程見通せる目をもっていないため、

適材適所の視点で見ると、間違いなくリーダーにふさわしくない。

 

しかし現実は、経験を積んでいくにつれて、上の立場へと昇るという事でもある。 

 

私はこの序列の制度が嫌で、会社務めは向いていないと諦めたのであった。

 

先輩とは、なんだろう。

あまり構えないほうが良いのかもしれない。

かえってそれは現実との不協和をもたらす。

 

対等な対話をしつつ、こういう情けない先輩の存在もあるのだと

認められてくれればそれで良い。

回顧

人と横並びになる事を嫌い始めたのはいつ頃だろうか。
いや、正しくは自分を周りと同化させる事が嫌になったのはいつ頃だろうか。

小学生の頃は、はっきり言えば、秩序愛がとても強い時期であった。
今思えば、この年頃にしては珍しいタイプの人間であったかもしれない。

規律正しく、しかし調和のとれた平和な人間関係を好んでいた。
そして幸運なことに、両者が実現した(と思われる)環境に居られたため、
小学校生活を生き延びることができた。

しかし、それは中学校に上がると崩れることになる。

いわゆる、このころから要領の良さ、というのが
中学生という思春期を生き抜くのに、必要な力の一つになっていった。

私は不器用だった。

不器用ゆえに唯一頼りにした規則は必ずしも、評価の軸にならない事を知った。
調和のとれた人間関係なぞ、人数が小学校時代の数倍も増えた環境では、
実現不可能に等しかった。


そんな現実はすぐに理解できた。だから、疲れた。


私の小さくて伸縮性のない信念など、いとも簡単に折れた。

しかし、私はこれで良かったと思っている。

安寧秩序な社会。調和がとれたユートピア
健全で理想的な社会。
そんなものは存在しない。

その現実を13歳の心身に叩き込んでくれた、いい機会であった。

私はこのころより不登校になり、最終的に中学卒業まで教室に戻らなかった。

大人たちは必死に原因を探す。
いじめられたの?あの授業のグループが良くなかった?家庭が良くなかった?


それともお前が甘いだけじゃないか?


今思うと、私の不登校の原因はそんな、安易で一時的なものではなかった。

あの時、私は間違いなく社会に相対した。
それも、中学すら包含する大きな社会に。

そして悟った。

私のありのままの存在の仕方は、社会に貢献できるものではない。

生きていくためには、
自分を殺して社会に対し"良い人間"になり、周りと調和を築き上げるか、
自分を殺さない代わりに、"良くない人間"のまま、大多数の人間と違う道を行くか。

どちらも自分に傷がつく、茨の道だ。

中学生だった私に、その決断をする勇気はなかった。
高校生になっても、結果的に多くの人とは違う道を選ぶことになったが、
それでも私は、"私を含めた周囲との調和"、という幻想を捨てる勇気が無かった。

どちらを選んでも茨の道ならば、自分を殺してしまえばいいと、本気で思っていた。

自分の存在を消す前に、というやけっぱちな気持ちで受けた大学の試験は、
合格という結果になった。

私は生かされた。



現在。

大学では私と似て、どこか集団とは浮くような、個性的な人々に囲まれた。
人と違う、ということを排除するのではなく、面白いやつだと笑ってくれる人がいる。
これを幸せと言わずに、なんと言おうか。
ただ私の存在を認めてくれる存在がいる。それだけで十分すぎる話だ。

未だに社会との折り合いはついていないが、その一歩手前、自分の存在の仕方は定まってきた。

学生の身分を終えた暁には、次の課題である、
社会との付き合い方、をぜひとも会得したいものだ。

某企業の説明会を終えると、その疲労感はもはや痛みと化していた。
スーツという鋳型は、ここまで体を締めあげられるものか、と改めて感じる。


緊張を和らげるために、適当なカフェを見つけて入る。


ブリキのマグカップに入ったアイスコーヒーは、
底の見えない井戸のように見える。
手を付けずに手元のマグカップを眺めていると、店員がストローを持ってきてくれた。


お前はマジョリティから漏れた人間だ。
これからもマジョリティから漏れる人間だ。


企業の説明会に殺到する就活生の黒い群れに溶け込もうとすると、
私の頭の中でこうした声が響いた。


何も価値を作り出せなかった自分が、顔も名前も知らない黒い群れに溶け込もうとする。


本来であれば群れに溶け込むことは、社会的生物である人間にとって、
安心感を覚えることなのかもしれない。


しかし私が常に覚えるのは、弾力性の強さ。
それも私を通してくれない、
水と油のようにお互いを弾く関係性。


自分には、社会に貢献の出来る価値がないと分かっている。
これは、憂鬱な自分が作り出した、歪んだ認知ではない。
適正の方向性が社会に向いていない、という感覚が近い。


だから、マジョリティに漏れた就職活動をしようと決めた。


職を得るのに、黒い渦の勢いに身を任せるだけが唯一の道ではないはずだ。


とりあえず、で職を得るのをやめた。
自分の及ばない事で価値を生み出そうとするのをやめた。


私は恐らく、またもスタートラインに立つのにすら遅れるのだろう。
しかし、それでいい。
自分の命を削って生み出す、まやかしの価値は、すぐに見破られてしまうだろう。


しかし、飲み終わったコーヒーは、氷が大きくて、やはり底が見えなかった。

黒猫

私の家の前には畑と桃の木がある。


畑はいつも、玉ねぎだろうか、が栽培されているらしいが、
現在は見る影もなく、土も見えないくらいに雑草が茂っている。
太陽が落ち、空が暗くなってきたころに買い物から帰ると、
雑草畑へ黒い猫が一匹、走っていくのを見かけた。


猫の目線ならば、この雑草の群れは森のようなのだろうと感じつつ、自宅へと向かっていると、
雑草の隙間から道路側を覗いていたらしい黒猫と、目が合った。


その光景の偶然性を可笑しく感じ、目線を落とし、手などをヒラヒラしていると、
黒猫は雑草の森へと走っていった。


私が通過するのが分かっていたかのように、道路を覗く黒猫の黄色い目が
未だに脳内に焼き付いている。


その猫が何の原理でそう行動したかは分からないが、
黒猫が見せた警戒心が、雑草の森へと入っていく様が、
まるで、警戒心の強い人間が集団へと逃げ帰る様を彷彿とさせた。


私たちは深く知り合った人間以外、例え初対面の人間でも集団へ溶け込んだとしたら、
それを見つけることは難しく、そもそも探し出そうとするだろうか。


集団は個人の集まり、社会は集団の、さらに言えば個人の集まりなのに、
一度溶け込んでしまえば、これほど匿名性の高い空間はないだろう。


など、ただ目の前に広がる雑草畑の、一過性のメタファーを、ああでもないこうでもないと考える。


対照的に桃の木が植えられている一角は、枝先が伐採され、葉も花もない。
土が広がる中に木だったもの、が植えられている。


これだけ密集していなければ桃の木は一つ一つ見分けがつくだろう。



私の家の前には二つの様相の異なる、集団が存在する。

所在無さ

正午12時に起き、シャワーも浴びてなかったため、
今日はなにも出来ない日か、と思いつつ
"勉強"をお題目にカフェに行った。


1日の最低限の目標である問題一問をこなしたものの、結局熱することもなく、そしてなにも考えず、
ぼやっと時間を過ごしていたために現在に至る。


大学の休暇期間は長い。
だからこそ留学に行く人、バイトに精を出す人、
就活に精を出す4回生、そこに私は含まれていないが、
などがいる。


時間をどう使おうかは、あからさまに人に迷惑をかけない限りで自由だ。
だからこそ正解はなく、所在無さを感じることが多々ある。
友達と呼べる人はありがたいことにいる。
彼女たちと一緒に出かけることがあっても、頻度としては少ない。


一人の時間をどう過ごすかは、毎日、それも毎秒迫ってくる課題だ。
私は多くの時間を、外国語の学習と読書をして費やすために、意識しなければ、外に出ていく必要性が基本的にない。
石の下に巣食うダンゴムシのように、私の巣は陽の当たるところにない。


気まぐれに外へ出ていくと、人間の関係性や反乱する情報が目に見えない電波のように、絡まりながら存在するように感じられる。
そして、その中に組み込まれていない、自分の存在も。


どう過ごすか、はどう生きるか、の問いに合致しないものの、類似の解を与えることができるだろう。
しかし、私の解は現実にはまだ適合しない、途中式のままだ。


日陰者は、陽に出るために適応させていかなければならないのか、と思った矢先、
"日陰で育つ花"の存在を思い出した。
誰がいつ言ったのか思い出せない、しかし何故か覚えているフレーズ。


いつもの癖で調べてみるも、中々様々な種類がある。
そして、これらは日陰"でも"育つという表現がなされている。


ならば、なるほど、私はこの花のように生きよう。
日陰でしか育たない花がないのなら、日陰でも育つ、時たま陽にあたることもある、そんな存在になる。


そう言いながら、再び外に出たのはこんな深夜。
踊り場に捨ててあるビニール傘が、風になびいているだけであった。