幻
シャワーの蛇口を捻る。
冷たい水から徐々にぬるま湯、熱湯へと変わっていく。
肌は温度の変化を敏感に感じ取り、
瞬間的に脳が熱暴走したかのように感じる。
シャワーを頭からかぶる。
ニューロン間の電気信号が、火花が散るかのように感じる。
ほんの瞬間的な、強い光。
黒い煙が広がる。視界の三分の一を徐々に黒に染めていく。
いや、煙ではない。黒い文字の羅列、点滅の集合体である。
明朝体が頭を埋め尽くす。
鐘の音がする。
身体の底から畏怖を感じさせる低い、振動。
重くなる体。
底から響く鐘の音に引き寄せられる、抗えない膨大な力。
シャワーからこぼれ出るのは油。
使用済みの汚れたそれはドロドロドロドロと流れを止めない。
身体が汚れていく。髪が、腕が、セピア色に包まれていく。
刹那、石鹸の香りが現実へと引き戻す。
私はこの現象に名前を付ける事が出来ない。
匂い、それだけが信頼可能な現実であった。
幻聴、幻視、しかし幻臭は聞きなじみがない。
ユニットバスの中で蹲る。
この現実は幻を包含した概念。
脳が作り出した感覚、経験。
シャワーの浴槽の底に当たる音。
その音の永続性がここまで確かなものかと、
考えるに至った私の裸は油ではなく、
まぎれもなく水滴が肌に乗っていた。