双極性Ⅱ型の呟きの行く先

双極性障害Ⅱ型の現役大学生。将来は不透明。

シャワーの蛇口を捻る。


冷たい水から徐々にぬるま湯、熱湯へと変わっていく。
肌は温度の変化を敏感に感じ取り、
瞬間的に脳が熱暴走したかのように感じる。


シャワーを頭からかぶる。


ニューロン間の電気信号が、火花が散るかのように感じる。
ほんの瞬間的な、強い光。
黒い煙が広がる。視界の三分の一を徐々に黒に染めていく。

いや、煙ではない。黒い文字の羅列、点滅の集合体である。
明朝体が頭を埋め尽くす。

鐘の音がする。
身体の底から畏怖を感じさせる低い、振動。
重くなる体。
底から響く鐘の音に引き寄せられる、抗えない膨大な力。

シャワーからこぼれ出るのは油。
使用済みの汚れたそれはドロドロドロドロと流れを止めない。
身体が汚れていく。髪が、腕が、セピア色に包まれていく。


刹那、石鹸の香りが現実へと引き戻す。


私はこの現象に名前を付ける事が出来ない。


匂い、それだけが信頼可能な現実であった。
幻聴、幻視、しかし幻臭は聞きなじみがない。


ユニットバスの中で蹲る。


この現実は幻を包含した概念。
脳が作り出した感覚、経験。


シャワーの浴槽の底に当たる音。


その音の永続性がここまで確かなものかと、
考えるに至った私の裸は油ではなく、
まぎれもなく水滴が肌に乗っていた。

言葉

言葉が好きだ。


人々が紡ぐ言葉が好きだ。音声、文字、媒体は様々ある。

外国語が好きだ。
一つの言語の総体、体系のネットワークを眺め、潜るのが好きだ。


しかし、
私はこの言葉に対する好きという感情に、
論理的な根拠を与えることが出来ないでいる。


何故私は言葉が好きなのだろうか。
好きと言う事実に対する因果が、どうにも私には上手く説明が出来ない。


言葉は世界にアクセスする手段であるから。
どうもこの説明が一番腑に落ちるように思われる。


例えば、
文学という世界にアクセスするのにも言葉は必要である。
そして、外国という物理的に離れた国にアクセスするにも言葉は必要である。

どこをとってもマクロな世界、ミクロな世界にもあらゆるネットワークは存在する。

私は膨大な宇宙空間のように広がり続ける世界に繋がる手段として、
言葉が好きなのだと感じる。


言葉は私の身体の延長である。
そう、言葉は私にとって身体の一部なのである。


音声を作り上げるプロセスとしての音韻論といった複雑なものではなく、
至ってシンプルな答えだ。

私はこの身体の一部を自由に動かし、限界に挑戦していきたい。
言葉という部位を様々な世界に触れさせ、
他の感覚で以ってその世界を体験したい。


言葉は自由だ。制約が存在したとしても。
言葉は存在を構成する。名もなき物に遭遇したとしても。



しかし、
どうやら現代において語学の価値は減少傾向になる事が予測されている。
AIの発達による自動翻訳機への期待がこの説を支持しているらしい。


それでも私は言葉について考え続けるだろう。


10年、20年、50年経ったとしても、
私は言葉に向き合う事でしか、
自分の存在と世界の繋がりを体感する事が出来ないのだろう。

そして言葉で以って私という存在を表現する事しか出来ないのだろう。

寒い。

 
久々の雨。


傘を持つ手の甲には、悲しくも雨粒が乗っている。

 

私の体調は天候にいとも簡単に左右される。
天気予報よりも、私の体調で天気が予測できるかのようだ。

 

それでも屋根に雨が当たる音は好きだ。

豪雨の激しい音には恐怖を覚える事はあるが。

 
雨にまつわるものが好きだ。

傘。長靴。レインコート。

あくまで鑑賞する側にすぎないが。


寒い。

 
靴に雨が染みる。靴下までも侵食する。
末端神経を冷やす。寒さが加速する。


太陽は見えない。暗い。


雨が斜めに降っているのが分かる。
自動車の彩度の高い赤いライトが目に染みる。
 
木から垂れる雫の大きさと、その冷たさを敏感に感じ取る肌。

ビニール傘の骨組みが折れている。無造作に捨てられた、使われたモノ。


夜も雨はやまない。


雨の音が聴覚を刺激し続ける。


いつになったら陽の光を再び浴びられようか。

それが一日後でも、数日後でも、
晴れた暁には、
光合成をし続ける植物の様に、太陽に向かって外に出よう。

恋とは、

林檎から蜜が滴り落ちるような、そんな甘い感情だと信じていた。

 

いや、事実一時その甘さを享受していた自分自身を、

今さら否定することは出来ない。

 

今は枯れたその林檎を、

ただ現実なのだと受け止めるしか出来ない。

 

それでも芯は残り続ける。

削ぎとろうとする指の力は入らない。

 

実のなる木を見る勇気すら今は出ない。

 

新たに紅くなるあの実も、成熟したあの実も、

私には食べられないのだと、諦めが先行する。

 

 

枯れた林檎はいずれ腐敗臭を漂わせるだろう。

 

 

未練は捨てなければ。

もう味覚を魅了するあの味は残っていない。

 

 

皮下脂肪の隙間、

骨と皮膚の隙間に冷たい風が染みる。

 

 

既に実ったあの木の果実も、この風で吹き飛ばされればいい。

 

 

今はただ忘れたい。

 

 

枯れきった林檎も、水分の抜けた身では風に吹かれだろう。

運良く土に落ちれば、新たな栄養となり得るかもしれない。

 

しかし、その過程を私は見届けることが出来ないだろう。

 

さようなら、恋。

齧り尽くすことの出来なかった恋。

 

 

さようなら。

 

 

 

今日だけで2回目の更新になる。

というのも、何かをしていないと辛いのが現状だからだ。

 

 

ここ2週間で私の心身は大幅に削られた。

 

物事が考えうる最悪の結末を迎えたからである。

 

 

恐怖が私の心を支配する。

 

 

辛い。それに加えて少々の孤独。

辛い。自責の日々。

辛い。罪悪感を誰に認めてもらえようか。

 

 

もう望んだ結末を取り戻す事は出来ない。

 

後悔。落ち度。何もかもが棘に見える日常。

 

 

今日は風が強い。

日中の柔和な日差しは、日没と共に冷たい風へと変貌する。

 

冷たい風は私の居場所とも言える喫煙所にも吹く。

吸殻、土、落ち葉、全てを攫っていく。

 

今の感情が、風に攫われればどれだけ良い事か。

底のない、永久機関のようなフラッシュバックと負の感情がこびり付いて離れない。

 

 

それでも私は生きたい。

 

 

ただ、生きたい。

 

今はその思いだけが私を守る鎧なのだろうと、情けない、継ぎ接ぎの不格好なモノをただただ見つめている。

 

 

 

肉※閲覧注意

私の目の前には二つの袋がある。

猪と鹿の死体が入ったビニール袋。
それも何重にもビニールテープで巻かれていて固定されている。
袋の角には赤黒い血が溜まり、内側には水滴が張り付いている。

生きていたものの最後のなれの果て。
それまで生きていたことの証がビニール袋を見るにつれて想像させられる。

荷台に乗せる際には、もう冷え切った死体であるのに、
生温かさの錯覚が脳を支配する。
足の輪郭、毛皮の硬さ。
生が留められた形と死の触感。


穴を掘る。


まるで殺人の隠蔽をするかのような罪悪感と対峙するが、
これが人間であれば、この程度の罪悪感で済まないだろう、
と恐ろしい想像をする。

しかし現実、
この大きさの猪と鹿であれば10歳程度の人間と重さは変わらないのだろうと、
猟奇的な考えは止んでくれない。


穴を掘る。


何とも名の分からない植物は、こんな深くまで根を張るものなのかと驚く。
ムカデが掘り出される。土の色の変わり目が見える。

獣たちに適当な大きさの穴を掘ったところでナイフを取り出した。

およそこの国の日常では馴染みのない、
銀色の、錆一つないスラリとしたサバイバルナイフ。

ビニールを破る。
この程度の大きさのナイフでは何度も切り込みを入れなくては。
ビニールの葛が空中に舞う。徐々に蠅が集る。

破られたビニールから出てきた猪は、
生きていた時の姿とほぼ変わらぬ姿であった。
唯一違うのは、腹から臓物があふれ出していた事である。


あの黒い臓物は何かしら、等考えている内に腐敗臭が空気中に広がった。


マスクを通しても鼻に届く臭いに一瞬吐き気を催す。
ナイフの傷で腸が破れたのだと感づく。
それでも銀色のナイフを猪の腹を刺す。何度も、何度も。

臭いは消えない。蠅が本格的に集りだす。耳が蠅の羽音を捉える。

死の処理をした後、猪の死体に土を被せる。
臭いを物理でもって隠すかのように。

次には鹿を埋めなくては。そうして私は再び穴を掘った。

鹿の腐敗臭はそこまで空に広がらなかった。
破ったビニールから出てきたのは千切れた頭と胴体。

火かき棒で頭をひっくり返すと、また土を被せた。

さよなら、猪と鹿。
お前たちは時間をかけて、バクテリア、ウジに食われ骨になるだろう。
そして土の栄養となり、植物の糧となるだろう。

破れたビニールの角には依然と黒くなった血がたまっていた。

両極

更新がままならず、前回から4か月もの月日が経ってしまった。

 

目下、秋空と乙女心という言葉に違和を感じる程に天気予報は毎日の天気を言い当てる。晴れの日、そして雨の日。

 

しかし、外は寒い。

例年より早くに上着を出し、こたつを出す。

とは言え、その努力も虚しく、間も開けずに風邪を二度ひくという失態を犯してしまったが。

 

 

私はこの秋、別れと出会いを同時に体験した。

 

 

以前の恋人とは話し合いの機会すら設けない、5年の付き合いとは思えない、あまりにあっけない別れ方をしてしまった。

 

 

不意の別れ。

それは私の感情を沈ませるには十分値する出来事であった。

 

 

実際、授業にもその影響が出たことは想像に難くない。私は落ち込んでいたのだ。自分の負の感情に対面し、一所懸命に咀嚼、消化しようとしていた時期であった。

 

 

しかし、私は犬も歩けば棒に当たるという言葉の両極性に遭遇することになるのであった。

 

 

原来、犬も歩けば棒に当たるということわざは、

1.何かを行うにつれ、災難に遭うことの例え

2.思わぬ幸運に出会うことの例え

の両極性を持つ言葉である。

 

その言葉通り、別れの後に私は出会った。

それも一目惚れという形で。

 

現在では。

 

恐らく躁転したかと思われるほどに、毎日の浮つく気持ちと対峙している。それに付随するかのように嫌な出来事がある場合は、通常以上に落ち込み、まるでジェットコースターのような感情の波を体験してしまう。

 

薬でもコントロールのままならない感情。医学上、悪とされる双極の激しい波。

 

目下、私はその荒波に身を揉まれている。

 

普段感情の平坦な私は戸惑い、困惑、コントロールの難しさを感じる。

このままでは自分という機体は墜落してしまうのでは、と感じる程に。

 

何故か現在、ここまで文字に表すと辛さを感じてきた。いや、辛さというよりは疲弊というべきか。

 

別れと出会い。後悔と期待。

 

私にこの両極性を体験するには、自身の容量の少なさ、狭さと言ったものを感じる。

 

諸行無常。別れと出会い。

それでもこの出会いは大事にしていきたいのだと、これだけは思う。

 

たばこの吸殻を見ながら、世の虚しさと儚さを思うこの頃であった。