うつ病と心理学と自分

双極性障害Ⅱ型の現役大学生。将来は不透明。

誰よりも前向きだと思う話

どうもshamGです。

最近、鬱期でもそれでも死にたくない、死んでたまるか、死ねないと思うという思考が出てくる事に気が付いたので、
タイトルのテーマについてお話したいと思います。

その前に。

そんな私でも中学生、高校生時代は、1日に1回は死にたいとか消えたいって思うくらいには
生きることにつかれていました。
この時から躁鬱の兆しはあって、出来る時の自分の出来ない時の自分の落差に困り果てていて、
でも周りは「自分で選んだことでしょ」「出来ないのに何で?」「今度もきっと出来ないのわかるよね」といった言葉
を容赦なく浴びせて、

それがもうどうしようもなくて死にたくて仕方なかったのです。

自分が一番困っているのに助けはなく、努力すればするほど、この差は開く一方で、躁と鬱の乖離は激しいものになっていきました。
とにかく、こんな生き方を今後も人生で続けなくてはいけないのが嫌だったのです。

そんな時、忘れもしない2011年3月11日の歴史を揺るがした東北大震災。

…の数日後でした。

もともと母と別居していた父の自殺。

48歳でした。

私の精神はおかしくなるかと思えば、そうでもありません。
涙も出ず、ただただ怒りと呆れ。それだけでした。

でも、それ自体がおかしかったんです。

この時不登校をしていた私はこの出来事をきっかけに、学校にすんなりと戻っていったのです。
だって「出来る気」がしたから。

死ねない「動機」の完成

しかし、これは今思えば躁的防衛にすぎなかったのです。3か月もするとやはり私はまた学校に行けなくなりました。

以降、私は死にたいと思う事すら罪であると感じるようになりました。

誰があんな、父の最期を、同じ末路を辿りたいと思うのか。
私が仮に自殺で死んで、誰が父と同じところへ行きたいと願うものか。

このような思考がまとわりつくようになりました。

それは生きながらの地獄です。逃げ場がいよいよない、八方ふさがりの状態です。

死にたくても死ねない、死にたいと思うのは悪魔の誘惑。

そんな状態を数年生きて、それでも何とか生きてきました。

生きる「動機」の完成

見方を変えれば、それは生きることへの動機にもなりました。不純である事は承知ですが。
しかし、これは何よりも強い動機です。皆さんは生きる動機を自覚したことがありますか?

躁鬱という荒波に飲まれそうになっても立っている強い意志。

私はポンコツになる時もあるけど、でも、飲まれまいとする意志は自分の中に持てたとそう確信しています。
だからこそ、荒波にただ立ち尽くすのではなく、波にのまれても泳いで自分を保つ術を獲得したいとそう日々思っております。

父のように悪魔の囁きに唆されるのではない、あくまで自分が生きる主体でありたいのです。

この意志は鬱期でも持ち続けています。だからこそ私は楽天主義者ではないけど、自分の事を前向きだと勝手に思っているのです。

鬱=後ろ向きではない

鬱というのはある意味、生という大きな存在を目の当たりにして戦っているものだと私はそう感じています。
苦しみながらも、そんな大きな存在と戦い、今日を生きているのであれば、

それだけで尊いものなのではないかと思うのです。

確かに心身の状態は良くないですし、ネガティブな思考に陥ります。

それでも生き抜くこと、そのために「何もしない」事も十分な戦略じゃあありませんかと

私は言いたいです。

感情の残ったポンコツ機械

こんばんは、お久しぶりですshamGです。

6月、最近はジメジメとした季節に入ったというのと、
個人的なリズムの乱れによりだいぶ鬱期に浸かってきた気がしています。

そして、出来る時、つまり躁状態だけでこのブログを更新しても何も役に立たないと思い、
久しぶりに身を起こし、記事を書いています。

私は鬱期であるとき、自分の事をタイトルの通り、「感情の残ったポンコツ機械」と
形容するのが一番正確だと感じています。

感情の揺れ

これは正直躁状態の時の方が個人的には強いです。むしろ鬱の時の方が感情は平たんになっているように感じます。
だからこそ、「無い」わけではないないけど、少し「残っている」宙ぶらりんな状態だと感じるわけです。

人によっては悲観的な考えしか浮かばないという事もあるとおもいますが、
私の場合は感情がまだ「残っている」でも、「残っている」と形容するほかないくらい、少ないもの
というようなイメージです。

皆さんは鬱期、どのようなものだと感じていますか?

ポンコツ機械

これは単純明快で、頭が回っていない事そのものです。それなのに処理しなければならない事が外にはたくさんある。
それでもこんな状態にあっては、いつも出来ることが目に見えて出来ない。
友人、知人から心配される。そんな状態です。

機械というのは感情があるものではありませんから、普段の状態を「感情のある機械」としておくのは正確ではありません。

しかし、人間として、いや子供でも動物でも当然に出来るような機械的な事さえもできないのですから、
ネジが外れていると意味でここでは分かり易く、機械として自分をみなしています。

鬱期の自分をどう形容する?

さて、個人的な説明はさておき、私はそれでもこの状態が嫌です。ただ出来ないだけならまだしも、
「いつも出来る当然の事が出来ない」、これは苦痛の極みです。

躁鬱の患者にとって一番の苦痛は、

出来る自分も出来ない自分も真である

というところに根源があると、私は思うのです。

しかし、出来る自分がいるのに出来ない自分を認めるなんて、だれが出来るかっていう話ですよね。

だからこそ鬱期の自分を、自分ではありますが、別の名前をつけて、自分の別の一面として見られるよう
切り離すという事を私はしています。

そのため、私は鬱期の自分を「感情の残ったポンコツ機械」と形容しました。

言葉遊びのように聞こえるかもしれませんが、比喩というのは言葉を尽くすよりも、案外人に通じたりするものです。
そして、他人の「どうして?」を呼びます。

また、自分の鬱期の症状を見直すきっかけにもなります。
私の場合で言えば、自分を「機械」とみなしているのですから、「あぁ、感情が出ないんだな」となります。


この鬱期の自分をどう呼ぶか、形容するかは同じ躁鬱患者の間でも絶対に違いがあるはずです。

どうやって鬱期の見通しをたてるか

実をいうと、これに関してはまだ見通しをつけられるほどあまり経験が豊富ではありません。

ただ、一つ言えるのは
・この状態で永遠に居続けるわけではない
・「出来る自分」は今力を蓄えている、休んでいる
・今は「感情の残ったポンコツ機械(ここは皆さんの形容する言葉なら何でもいいです)」だから、仕方ない。
→そもそも、みんなと同じ土俵に立ってないのにここまで頑張ってるんだ。

っていうのを考えたりしています。

最後の項目についてですが、私の場合、
「だって健常者(あえてこう書きます)と同じ土俵に立ってないのにここまでやってるんだから十分でしょ。」
と考えるようにはしています。

何故なら、この躁鬱というジェットコースターに乗っている状態で、
平地で歩いている人たちと比較なんて出来ないじゃないですか。その平地に多少の下り坂、上り坂があったとしても、です。

なので、私は苦しみの根源である「他人(大多数)と同じ土俵に上がる」という事から、降りるようにしています。
比較しようがないものと比較したって、苦しみを生むだけですから。


改めてですが、皆さんは鬱期どうお過ごしでしょうか。頑張ろうなんて言いません、生きましょう。

私もとりあえず生きます。

"何とかしなきゃ"は諦める

どうも、shamGです。

最近自分だけではなく、鬱状態にもめげずに生きている人たちを見て
自分の一側面を客観的に見たような気がしました。

そんな中で思ったことを一つ書き留めたいと思いました。

何とかしなきゃ!思った時点で…

私は変に馬鹿真面目でいる自分の性格で嫌で、でもそれが抜けられなかったせいか、
このような状態になったと思っています。

この場合、性格というよりは思考法と言えばいいのでしょうか。

何もしていない自分が怠惰で無価値に思えて何かしないと、と思う。
何かせざるを得ないと思ってしまう。

でも、よく考えると「何とか」しなきゃと考える時点で、それは自分の思考の限界であるか、
あるいは無意識にブレーキがかかっているか。

何もしなくていい"無"から生まれた妄想の一つなんですよね。

つまり、この場合の「何とかしなきゃ」という思考は一般的には、「何もしなくていい」の裏返しなんだなと思います。

じゃあ、あまのじゃく的に考えて、「何とかしなきゃ」という考えが浮かんだ時点で、
「何もしなくていい」んだよ、「今は諦めろ!」と自分に突っ込めばいいじゃないかと思うのです。

だって、解決策は「今は」ないのですから。

具体的になってから考える

例えば、これが具体的に「~しなきゃ」という考えなら、まだ行動に移せる分、思考の解消法はあるはずです。
しかし、「何かしなきゃ」の「何か」が自分も分かっていないなら、どうしようもないですよね。

ならば、自分みたいな阿呆は「何かしなきゃ」→「あぁ、そういえば何もしなくていいんだ」→「じゃあ好きな事やったろ!」

と結果的に楽天家みたいになったりするのです。しかしこれが意外と何とかなるもんです。

あとは、友人がくれたアドバイスの中で、
「せっかく好きなことができるの時間があるのに、無駄なこと(何かしなきゃというような事)を考えてるのがもったいない」

というものがありました。確かにその通りだと納得して以降、私は妥協を覚えたつもりです。



「何かしなきゃ」という思考をしている自分に気づき、次にその思考からどのような行動をとるのか。
これによって更に鬱になるのか、あるいは気が晴れるのか、それが違ってくると最近はそんな気がしています。

"教える"に情熱を注ぐ

どうも、shamGです。
試験とアルバイト、そして自分の調子の波に攫われつつも
1教科単位の犠牲のみで何とかやっています。

今日はある授業を受けて感銘を受けた(自分らしくないが)ので
このテーマについて書いていきたいと思うのです。

その授業は様々な領域で"教育"に携わる人達のオムニバス形式なのですが、
自分の知識のみではなく、後世に引き継ぐ、つまり"いかに教えるか"に情熱を注ぐ人たちも
いるのだなぁと感じ、非常に驚きました。

知識の再構成

私が特に感銘を受けたのはこの言葉です。
もし、ある教科を小学生や中学生に教えるとするのならば、自分が今までやった事を
一旦壊して自分でまた作り直す作業が必要だというのが、この言葉の意味するところです。

しかし、これって簡単に言えることですが、とても難しいですよね。

だって、誰かに教えるときに一番楽な方法とは、自分が楽に解ける方法をそのまま教えることですよね。
そうじゃなくても、教科書に沿って何度も何度も同じような問題を繰り返させる…。
でも、これってそもそも"真に理解させる教え方"とは言えないですよね。
これはただの暗記テストと変わりませんし、自分で"考えている"とは言えません。

学んでいる中で生徒から出る「なぜ?」にすべて答えてあげられるような姿勢が出来ていないと
真に理解させるというのは難しいのかもしれません。
まぁ、そうするとキリがなくなるし時間がかかってしまうのは分かるのですが…。

でも、上から「これはそういうやり方で覚えるんだ」と押し付けることは、思考停止と変わらないのは確かですよね。

視点を定める

もう一つ感銘を受けたのはこの言葉です。つまり、自分が今学んでいるのはどういう視点に立脚したものなのか、
これを把握するという事です。

これもいざ実践するとなると難しい事です。つまり、"何が分からないか分かる事"が重要ですから。
そして、これこそ教える立場の人々が支えてあげなくてはならない点だとも感じる訳です。
迷路に迷っている生徒を、上から把握しその上でゴールにたどり着かせるのが教える立場の役目だと思います。

しかし、これについても、ただ生徒の手を引っ張ってゴールに連れていくようなやり方では怠慢です。
何故迷ってしまったのか、これを上から把握し教えてあげられないのなら、それは"教える"とは言えません。



…こうして見るといかに、教える立場というのが難しいのかと思われます。
私たちの日常生活では、誰かに何かを教えるという事は無関係かもしれませんが、それは教育現場のみならず
会社の上司部下であったり、親子供であったり、様々に"教える"状況は存在します。

自分は今のところ、いずれも無関係だと感じている(だけかもしれない)のですが、
自分の知識を引き継ぐ作業というのは些細なようで難しいのだと思います。
だからこそ一旦待ったをかけて、教えられる立場の目線を考えた教え方というのが必要なのでしょう。


とまぁ教育に今の所何ら関係のない一学生がそう思えた一日でした。

読書、読書、読書。

どうもこんばんは。

不眠症がやはり治らないshamGです。

 

最近は何をしていたかというと、試験勉強をしなければならない時期に差し掛かったのですが、ひたすら読書をしています。

 

なぜ今読書か?

 

…現実逃避とやる事のなさの末に行き着いた、ただそれだけの事です。

 

今まではゲームをしたり、スマホSNSを見たりなどで時間をつぶすこともできましたが、それらは目や頭に負担がかかるという体調的理由もあるかもしれません。

あとは貧乏人が世界を広げるためのツールとして、一番安価で手近という事もありますね。

 

中学高校の国語の教科書で読むはずだった文豪の名作等を、現在になって時間をとって読んだりなどして、個人的には楽しい時間を過ごせているつもりです。

 

このブログでも、面白い本を見つけたらレビューとか出来るといいなぁと思っています。

 

生存報告として短く内容のないものになってしまいましたが、ここらで失礼します!

 

治療者の論理と一当事者の論理

どうも、shamGです。

 

この時期は調子が悪く、出来ない自分に対して自己受容が出来ないという事もあり、

かなり遅い反抗期を迎えて(もちろん成人済み)います。

なので、行動もしっちゃかめっちゃかになっているように思います。

 

何でこんな風に思ったかと言うと、

今日の学校の授業で非行臨床という話題を扱った事もあり、

あぁ他人事じゃないなぁと思い、自分の行動を冷静に見つめてみると、

自己受容が出来ていないストレスが行動すべての根本にあると感じたのです。

 

自己受容の難しさ

双極性、うつの方ならば理解していただけると思いますが、秋冬のこの時期は

どうしてもエネルギーが落ちてしまいがちです。

それは自分の努力でどうしようもないレベルでそうなってしまいますよね。

そういう病気ですから。

 

この、"普段は出来る事が出来ない自分"というのはどうしようもなく情けなく、

みっともないと私などは感じてしまうのです。

それがストレスになって、エネルギー不足と相まって余計に苦しくなってしまいます。

 

自己受容ってどうやるんだ?

よし、原因が分かったのならあとは調べるのみ。

自己受容の仕方、どうすればいいのか調べてみました。

私の感想は一言に限ります。

 

同情が欲しいわけじゃねーよ!!!!!!!!!

 

心理系のページだと、大体当時の自分を慰めてあげようとか、過去の自分に語り掛けてあげようという文言が多かったですね。

あと自己受容はビジネスのキーワードなのか、そういった文脈で用いられているのをよく見ました。

曰く、自分に出来ない事を認める事で出来る事が分かる、増える…etc らしいですよ。

 

へーーーーー

 

前者に関して言うなら、確かに自己受容が出来ないのは過去の経験に基づくものでありますが、だからと言って過去の自分に同情してどうにかなるならば現在苦しむ必要はないのではないでしょうか。

後者に至っては認めるまでのプロセスが無いから理想論にしか個人的には聞こえないのです。頭では分かっていても実行するのは中々難しいでしょう。

だからうつでドロップアウトする人が出てくるのではないのですか?

 

確かにこれらの方法で楽になる人も大勢いるのでしょう。

これらの解決法も数式のように、問題を導き出せるからこそ成立して伝わっているものでしょうから。

 

でも人間は数式のように論理で動きません。教科書の数式のように、

全ての人に当てはまる訳はない!

 

要するに自己受容って一つ二つの方法で収まるほど簡単な方法じゃないってことですね。

 

一当事者の自己受容

まぁ、理想に対しては批判するのは簡単です。

問題は、自分がどういう方法を取るか、ですから。

 

なので私はは自分の論理でこの時期を過ごすことにしました。

即ち、恐らく過去に過ごせなかったであろう反抗期を今過ごして消化してしまおうと思うのです。

 

あえて擁護するなら、先ほど述べた中の、過去の自分を慰めるという方法だって

一旦過去に遡り、向き合うという方法な訳です。

ならば、このやり方であっても基本的な方略は同じなので、否定できないはずであります。

 

 

しかし私は大人で反抗期をやり直すつもりでいるので、大人のやり方で、

迷惑は自分だけが被る形で済ませたいものですね。

自己表現とストレス

自己表現と聞いて皆さんはどのような想像をされるでしょうね。

服装、言葉遣い等は表面的ではありますが自己表現の内の一つであり、

一番日常に隣接していると言えるのではないでしょうか。

自己表現ってなんぞや

私的にはその個人の素直な感情・思想・思考を他人に伝わる形にしたものと思っています。
そして、それは音楽や絵といった芸術と呼ばれるものから、ダンスといった身体的技法・表現も含まれる所が
人間であり、興味深いなぁと思うのです。

何故なら人間は解釈する生き物だからです。

つまり、それは他人へ表現を送信したところで伝わらない、
或いは意図した伝え方と異なるという事がありうるという事であります。

そしてこの特徴ゆえに、人間は自分の素直な感情の顕示欲と共に
その方式を無意識下、意識下で考察し選択します。

しかし、ひねくれものという言葉に表れるように、人間は表現方式を選択できる潜在能力があるにも関わらず
上手くいかないという事が往々にしてありますね。

これがきっとストレスの生まれる原因なのだと思うのです。

顕示欲と表現方式はかみ合わない事もある

顕示欲が強ければ強い程表現方式の選択に誤りは少なくなるのかと問えば、
そうはいかないというのが残念ですが答えなのでしょう。

分かりやすいのは"怒り"でしょう。 
この感情の自己表現というのは、他人にとって許される表現方式の限度を誤る事が多い。

多感な年ごろの息子を持つ一家の壁の穴。妻を感情のはけ口として利用する夫。
これらは容易く想像できるのではないでしょうか。

なぜかみ合わないか。

それは自分という個人の外界には社会という自分の規定したもの以外のルールが
幾重にも存在するからなのではないでしょうか。
ルールというのは秩序であり、法であり、慣習であり、…というように様々な換言が可能ですね。

要するにルールそれ自体が個人にとっては多義的で手に余るものです。

我々はそこに他人がいれば、ルールという見えない糸が絡まっているようで実は絡まっていない
そんな社会および世界に晒されることになります。

これが表現方式の抑圧、並びに誤りを生み、ストレスにストレスを重ねる原因になりうるのではないでしょうか。

自己表現は社会との折り合いでもある

最近私はこのようにして、自分の自己表現を定義しました。
何故なら社会を気にせず自分の気ままに表現方式を選ぶ事は、社会の逸脱、究極には人間の逸脱でもあります。

使い古された言葉によると、人間は社会的生物とも言われているようですね。
ならば生きている限り、社会が人間から構成されているのと同時に、人間は社会に頼らざるを得ない。

ほうほう、なら生きたければそこから逸脱するのは賢くない選択と言えそうです。

であれば自己表現の形式を確立させ、その強度をTPOに合わせて変えていく。
我々はこの事を意識上に浮上させ、自分の意思にて選択できるようなスキルを身につければ
ストレスは解消できるのではないでしょうか。



最近どこから拾ったかも分からないストレスを捨てられない自分への戒めとしましょう。