うつ病と心理学と自分

双極性障害Ⅱ型の現役大学生。将来は不透明。

読書、読書、読書。

どうもこんばんは。

不眠症がやはり治らないshamGです。

 

最近は何をしていたかというと、試験勉強をしなければならない時期に差し掛かったのですが、ひたすら読書をしています。

 

なぜ今読書か?

 

…現実逃避とやる事のなさの末に行き着いた、ただそれだけの事です。

 

今まではゲームをしたり、スマホSNSを見たりなどで時間をつぶすこともできましたが、それらは目や頭に負担がかかるという体調的理由もあるかもしれません。

あとは貧乏人が世界を広げるためのツールとして、一番安価で手近という事もありますね。

 

中学高校の国語の教科書で読むはずだった文豪の名作等を、現在になって時間をとって読んだりなどして、個人的には楽しい時間を過ごせているつもりです。

 

このブログでも、面白い本を見つけたらレビューとか出来るといいなぁと思っています。

 

生存報告として短く内容のないものになってしまいましたが、ここらで失礼します!

 

治療者の論理と一当事者の論理

どうも、shamGです。

 

この時期は調子が悪く、出来ない自分に対して自己受容が出来ないという事もあり、

かなり遅い反抗期を迎えて(もちろん成人済み)います。

なので、行動もしっちゃかめっちゃかになっているように思います。

 

何でこんな風に思ったかと言うと、

今日の学校の授業で非行臨床という話題を扱った事もあり、

あぁ他人事じゃないなぁと思い、自分の行動を冷静に見つめてみると、

自己受容が出来ていないストレスが行動すべての根本にあると感じたのです。

 

自己受容の難しさ

双極性、うつの方ならば理解していただけると思いますが、秋冬のこの時期は

どうしてもエネルギーが落ちてしまいがちです。

それは自分の努力でどうしようもないレベルでそうなってしまいますよね。

そういう病気ですから。

 

この、"普段は出来る事が出来ない自分"というのはどうしようもなく情けなく、

みっともないと私などは感じてしまうのです。

それがストレスになって、エネルギー不足と相まって余計に苦しくなってしまいます。

 

自己受容ってどうやるんだ?

よし、原因が分かったのならあとは調べるのみ。

自己受容の仕方、どうすればいいのか調べてみました。

私の感想は一言に限ります。

 

同情が欲しいわけじゃねーよ!!!!!!!!!

 

心理系のページだと、大体当時の自分を慰めてあげようとか、過去の自分に語り掛けてあげようという文言が多かったですね。

あと自己受容はビジネスのキーワードなのか、そういった文脈で用いられているのをよく見ました。

曰く、自分に出来ない事を認める事で出来る事が分かる、増える…etc らしいですよ。

 

へーーーーー

 

前者に関して言うなら、確かに自己受容が出来ないのは過去の経験に基づくものでありますが、だからと言って過去の自分に同情してどうにかなるならば現在苦しむ必要はないのではないでしょうか。

後者に至っては認めるまでのプロセスが無いから理想論にしか個人的には聞こえないのです。頭では分かっていても実行するのは中々難しいでしょう。

だからうつでドロップアウトする人が出てくるのではないのですか?

 

確かにこれらの方法で楽になる人も大勢いるのでしょう。

これらの解決法も数式のように、問題を導き出せるからこそ成立して伝わっているものでしょうから。

 

でも人間は数式のように論理で動きません。教科書の数式のように、

全ての人に当てはまる訳はない!

 

要するに自己受容って一つ二つの方法で収まるほど簡単な方法じゃないってことですね。

 

一当事者の自己受容

まぁ、理想に対しては批判するのは簡単です。

問題は、自分がどういう方法を取るか、ですから。

 

なので私はは自分の論理でこの時期を過ごすことにしました。

即ち、恐らく過去に過ごせなかったであろう反抗期を今過ごして消化してしまおうと思うのです。

 

あえて擁護するなら、先ほど述べた中の、過去の自分を慰めるという方法だって

一旦過去に遡り、向き合うという方法な訳です。

ならば、このやり方であっても基本的な方略は同じなので、否定できないはずであります。

 

 

しかし私は大人で反抗期をやり直すつもりでいるので、大人のやり方で、

迷惑は自分だけが被る形で済ませたいものですね。

自己表現とストレス

自己表現と聞いて皆さんはどのような想像をされるでしょうね。

服装、言葉遣い等は表面的ではありますが自己表現の内の一つであり、

一番日常に隣接していると言えるのではないでしょうか。

自己表現ってなんぞや

私的にはその個人の素直な感情・思想・思考を他人に伝わる形にしたものと思っています。
そして、それは音楽や絵といった芸術と呼ばれるものから、ダンスといった身体的技法・表現も含まれる所が
人間であり、興味深いなぁと思うのです。

何故なら人間は解釈する生き物だからです。

つまり、それは他人へ表現を送信したところで伝わらない、
或いは意図した伝え方と異なるという事がありうるという事であります。

そしてこの特徴ゆえに、人間は自分の素直な感情の顕示欲と共に
その方式を無意識下、意識下で考察し選択します。

しかし、ひねくれものという言葉に表れるように、人間は表現方式を選択できる潜在能力があるにも関わらず
上手くいかないという事が往々にしてありますね。

これがきっとストレスの生まれる原因なのだと思うのです。

顕示欲と表現方式はかみ合わない事もある

顕示欲が強ければ強い程表現方式の選択に誤りは少なくなるのかと問えば、
そうはいかないというのが残念ですが答えなのでしょう。

分かりやすいのは"怒り"でしょう。 
この感情の自己表現というのは、他人にとって許される表現方式の限度を誤る事が多い。

多感な年ごろの息子を持つ一家の壁の穴。妻を感情のはけ口として利用する夫。
これらは容易く想像できるのではないでしょうか。

なぜかみ合わないか。

それは自分という個人の外界には社会という自分の規定したもの以外のルールが
幾重にも存在するからなのではないでしょうか。
ルールというのは秩序であり、法であり、慣習であり、…というように様々な換言が可能ですね。

要するにルールそれ自体が個人にとっては多義的で手に余るものです。

我々はそこに他人がいれば、ルールという見えない糸が絡まっているようで実は絡まっていない
そんな社会および世界に晒されることになります。

これが表現方式の抑圧、並びに誤りを生み、ストレスにストレスを重ねる原因になりうるのではないでしょうか。

自己表現は社会との折り合いでもある

最近私はこのようにして、自分の自己表現を定義しました。
何故なら社会を気にせず自分の気ままに表現方式を選ぶ事は、社会の逸脱、究極には人間の逸脱でもあります。

使い古された言葉によると、人間は社会的生物とも言われているようですね。
ならば生きている限り、社会が人間から構成されているのと同時に、人間は社会に頼らざるを得ない。

ほうほう、なら生きたければそこから逸脱するのは賢くない選択と言えそうです。

であれば自己表現の形式を確立させ、その強度をTPOに合わせて変えていく。
我々はこの事を意識上に浮上させ、自分の意思にて選択できるようなスキルを身につければ
ストレスは解消できるのではないでしょうか。



最近どこから拾ったかも分からないストレスを捨てられない自分への戒めとしましょう。

案の定な話

やっぱりブログを放置してしまったshamGです。お久しぶりです。

 

10年ほど前に、ブログや個人サイトが全盛期だった頃、

そういえばあの頃から三日坊主なのは変わってないなぁと思いながら

キーボードを打っています。

 

さて、最後の記事が8月で夏真っ盛りだったというのにもう12月。

 

冬ですね。 

 

実に4カ月近く放置してしまいました。

しかし、これ以上放置すると本当に何も書かなくなると思い、

とりあえず更新したという形です。

 

数カ月色々ありましたがそれは追々、現状を含めて記事に出来たらと思います。

 

とりあえずの生存報告でした。それではまた。

はてなブログの面白さに気づいた話

こんにちは。夜更かし癖をつけないためにも早めに記事を書いている私です。

 

はてなブログを始めてからは、自分の好きな事を書く事、少しでも参考になる面白い事にばかり気が向いていたように思いました。

他のブロガーの方達はどんな内容をどういうスタイルで発信しているんだろうと気になり、トップページを始め、最近は色々なブログへお邪魔しています。

 

これが中々面白い。

 

自分の興味がある内容について詳しく情報を載せている方もいれば、自分の体験談を「そこまで書いて大丈夫か!?」と思うほどに赤裸々に綴っている方、更に専門知識を基に、あるニュースや社会問題などついて論考している方など本当様々です。

 

現実世界では、大勢の他人がどのような考えや知識を持っているかなんて、分かる訳が無いだけに、たくさんのブログを通してこんな人達もいるんだなぁと、時間だけは無駄にある自分には面白くて仕方がないのです。

自分が無知な領域の内容についても、興味の範囲内であれば、知る事は楽しい事だといつも思います。

 

少し話題が変わりますが、私ももう10年近く前の中学生時代には、好き勝手書きたいことを書くブログを持っていました。

 

しかし、それはネット上の特定のコミュニティの人たちと繋がる為のものであって、今のはてなブログのようにカテゴリーを超えたオープンさは無かったと感じます。

 

当時を思い返すと、あの頃の「ブログ」は、一部ネットで強烈に有名なものや、有名人のものを除くと、一般人のブログというのは、URLかブログタイトルを知る人しかアクセスするものではない物、あるいは一部の界隈でのみ盛り上がるものという印象でした。(当時の自分が知らなかっただけかな?)

 

しかし今ではコンテンツはもちろん、ブロガー自身の価値を売り出し、ブログを基に稼ぐという方法も珍しくなく、プロブロガーという言葉も生まれています。

更に、はてなブログProのような有料サービスは、単に利用者の使用感向上といった側面だけではなく、利用者の自分への投資といった側面もあるのが、時代が変わったなぁという印象を受けます。

 

詰まるところ、私の中のブログ感は古いままで止まっていたんだと気付かされたのです。

 

10年前の自分に「ブログで儲ける人が珍しくなくなるよ。」と言ったらどういう反応をするのでしょうか。

当時の引きこもり気質だった私なら、Youtuberを将来の夢に掲げる小学生のように、プロブロガーを目指すようになるかもしれない…。

 

それではまた。

 

 

「スポーツはいいぞ。」

こんばんは、夜更かしがもはや日課になってしまいました。

 

今日はとあるスポーツ施設に行きました。スポーツ施設というと大体値段が高いイメージですが、そこは公営施設なので値段はお安いのです。

 

私は重度の慢性的肩こり、首こりもちなので、軽いストレッチこそ家でする事はあっても、汗を流すほどの運動はしてこなかったなーと思い、好奇心から行ってみる事にしました。

 

公営施設と聞いていたので、数台の機械とよくある血圧測定器や体重計などがあるのみかと思いきや…、数々のマシンがあり、かなり本格的でビビりました。また、更衣室も広く、無料でシャワールームが使えるという充実っぷり。

更に、背中を鍛えるだけでも3種類くらいのトレーニングマシンがあったり、ランニングマシンは10数台がずらりと並んでいたりと、スポーツジムと変わりないくらいでした。

 

早速!と思い身近にあった、ショルダープレスという肩のトレーニングマシンに挑戦してみたのですが、

重いし、何より上に持ち上がらない。

 

結局5回程しか上げられない体たらくっぷり。肩こりもちという事を考慮しても、この非力っぷりはかなり情けない。

 

最初はそうでした。最初は。

 

身体を動かす事をしてこなかったインドア人間が、トレーニングマシンをいきなり始める事の愚かさを感じ、最初は有酸素運動のランニングマシン等から始めていきました。

そして1時間以上を有酸素運動や、自分にも出来そうな足のトレーニングマシンに費やした後、もう一度最初のショルダープレスに再チャレンジ。

 

自分でも驚いたのですが回数が15回に増え、かなり最初より楽に持ち上げられたのです。

 

改めて考えてみると、全身の運動も加えた為、いつもより体全体が軽く、肩も首もポカポカしていてコリが楽になっているのを感じました。

もちろん休憩や水分補給はこまめにしていたのですが、ここまで約1時間半程だったでしょうか。

 

肩こりの解消にしても全身の有酸素運動は有効だなぁと感じました。

また、精神的にも、ある地点から楽なポイントを掴めると無の境地に入った気がして、一種の心地良さを感じる事が出来ました。そして運動後は使った筋肉が緩み、でも身体は温まっていて、疲れはあるのですが同時にリラックスしていて、これもまた心地良かったです。

 

双極性障害に関わらず、うつの患者は肩こりやそこから派生する頭痛持ちが多いと言われています。

 

そもそも時間を割いて、いきなり身体を動かすのはハードルが高いと思っていました。よく、鬱の対処法として運動は挙げられていますが、そもそも運動をする奴は鬱にならんじゃないか!と反骨精神を発揮し私は面倒を理由に遠ざけてきました。

 

しかし一旦やってみると身体、精神に対する運動の重要性というのが身に染みて分かりました。

帰宅後は、これからは施設に行かずとも、近所をジョギングし、後に水を入れたペットボトルを負荷としてショルダープレスをしたって良いんじゃないか?とか考えた程です。

 

無理をする必要はないですが、調子の良い時に軽いウォーキングからでも始めると、調子は変わってくるのかなと思います。

結局障害を抱えていたとしても スポーツはいいぞ という言葉は真理だと、心からそう思った一日でした。

 

それではまた。

 

コミュ障と思い込むのをやめた話

こんばんは、私です。

 

 

今の今までこのタイトルを思うに至った経緯を具体的に書いていたのですが、何となく漂う恨みがましさに辟易し、簡潔に書こうと全文消した次第です。

 

本題ですが、私たちの言うコミュニケーションって一体何を指しているのでしょうか。

 

万能なWikipediaによると、 

コミュニケーション(英: communication)もしくは通信(つうしん)、交流(こうりゅう)とは、
社会生活を営む人間の間で行われる知覚・感情・思考の伝達[1]。
(生物学)動物個体間での、身振りや音声・匂い等による情報の伝達[1]。

との事。しかしこれらを不十分として、

一般に「コミュニケーション」というのは、情報の伝達だけが起きれば充分に成立したとは見なされておらず、人間と人間の間で、《意志の疎通》が行われたり、《心や気持ちの通い合い》が行われたり、《互いに理解し合う》ことが起きて、はじめてコミュニケーションが成立した、といった説明を補っているものもある [4]

と補足がされています。

 

まぁ、そうだな。 っていう感じですよね。

 

ただ、これに沿うなら意思の疎通や心や気持ちの通い合いって皆一様ではないと思います。百人いれば、百人のコミュニケーションスタイルがあり、重なる部分が大きいか小さいかの違いがあるだけなのではないかと。そしてコミュニケーションは関係を作るものであり、関係に依存するものでもあるのではないかとも。

 

お互いの好きな事ばかりをたくさん共有しあう関係、友達だろうが恋人だろうがお互いを知りたくて一緒にいる関係、辛さを分かち合う関係、ただ話し相手が欲しいだけの関係、利益の為につきあう関係、共通の敵がいる関係…

 

もちろんこれらは重なり合っていると思いますし、その他にも様々な関係があると思います。

 

何を求めてコミュニケーションをとるのか、何に基づいてコミュニケーションをとるのか。"コミュ障"は自分と相手のこの二つの考え方のズレから生まれているんじゃないかと漠然と感じます。つまり個人と個人が対して、コミュニケーションのスタイルが異なる時というのは、自分だけではなく相手もコミュ障が生じたのだと言えるのではないでしょうか。

 

しかし、この相手が"会社"だったり"社会"にすると、途端に自分だけがおかしな、コミュニケーション障害になってしまいます。

 

相手を会社なり社会にあてはめたとして、それを個人個人の要素に分解した時、本当に自分は個人全員とズレが生じていたのか冷静に考えてみると、大体の場合は違うのではないかと思ったりします。どんなに人と喋るのが苦手な人でも、比較的話しやすい人、話しづらい人っていうのは必然的に出てくるような気がします。

 

自分がコミュ障だと思う時、それは大抵相手方に集団を予測しているからではないのでしょうか。

 

そもそも集団と個人が対等なコミュニケーションってとれるのでしょうか。

 

個と個と個…こうした個人の繋がりという関係を前提にする場合コミュニケーションという言葉はピンとくるのですが、"集団と個"という構図にしたとき、どうしても私はコミュニケーションという言葉ではなく、適応という言葉がふさわしいのではないかと感じてしまいます。

 

この適応という言葉に、"意思の疎通"、"心や気持ちの通い合い"という意味合いは含まれているのでしょうか。私はどちらかというと、一方的な意味合いを感じてしまいます。

 

眠気も出てきた中長々と書き連ねましたが、結局、集団に属するというのはその内々でのコミュニケーションも必要ですが、自分の意思主張が制限される"適応"も必須な要素の一つ。そしてこれは双方の意思を前提にするコミュニケーションとは、性質が異なっているのだから、通じない事はむしろ自然な事だと思った方が良いのかなと最近思うようになりました。それは単純に"仕方ない"事であると。

 

ただ、色々な場所において適応できるというのも強みであるのも確かですね。

でも適応できなかったからと言って、自分の"障害"として抱え込む必要まではないんじゃないかと、無責任にマックのMサイズポテトを頬張りながら、昼時に考えていた一日でした。