双極性Ⅱ型の呟きの行く先

双極性障害Ⅱ型の現役早稲田生。将来は不透明。

弱音

さて、更新が多くなるのは

悩みが肥大化しつつある兆候である事は

私が一番よく知っている。

 

人間やらねばいけない事が増えると

思考のネットワークを活性化させ、

リソースをフル活用せねばならない。

 

そうしてしまうと、必然的に意識上から溢れていた自身の眠る問題に直面化し、困惑を覚えざるを得ない。

 

 

正にこれが現在の状況である。

 

 

吐くべき弱音を飲み込むように、アイスティーを飲み込む。

吐くべき弱音を一つずつ消化するように、タバコの煙を吹かす。

 

ただ進むしか無いのだと自分に言い聞かせ、その実、歩む足取りは遅い。

 

しかし、忘れたいと思う事はない。

忘却は自身の初期化と感じるからだ。

 

 

ただ、引き摺りながら、歩む事。

 

 

生きる、その行為としての連続はこのようなものでしかないのだろう。

 

例え問題に直面化しても、必死に壁にしがみつきながら、無様に登る事が、矮小な人間の姿なのだろう。

 

ただ一度きりの人生の大切さは、至る所で啓発されている。

 

壁に阻まれる人生。

登るか、はたまた穴をあける越え方もあっても良い。

狡い奴と蔑まれても、同様の壁に再び阻まれる事への恐怖心を煽られたとしても。

 

歩むしかない。

越える時分が来て、能力が備わった時に巨大な存在を克服するのを待っても良い。

 

生きる事はわからない。

自分の事もわからない。

 

手探りで進む不器用さでしか、私はこの世界を生きる事が出来ない。

 

諦めの言葉だけは吐きたくない。

 

土に汚れた黒い革靴を磨いて外に出る日々が、

また今日も続く。

 

 

 

哀情

この感情に名前をつけるとしたら、何と呼ぼうか。

いつからか、泣きたいと思っても泣けなくなった自分がいる。
どれだけの悲しみも、ただの重りとなって、
脳を地に落とすような感覚。

感情が浮上しない。
抑うつ状態となり、思考の抑制が起こるものの
不思議と悲しみの感情は湧き上がらない。


最も印象的だったのは、哀惜の感情すら湧き上がらなかった事だ。


私は10代の内に近しい人を失った事が二度ある。

一人目は祖父、二人目は父。

こうしてみると父の死の方がよほど、哀惜の念に堪えないように思われる。
しかし事実は異なる。

父との暮らしが断片的であった私にとっては、
継続的に近くに寄り添った祖父の死の方が余程悲しみに暮れたものであった。

一方、父は。

本音を吐露するのであれば父は、軽蔑、憎悪の対象でしかなかった。
それらエピソードを語るには、
文字数を徒に消費するだけであるため省略とする。


しかし、私の人間らしい正常な感情に影響を与えたのは、
父の死である事も間違いなかった。


悲しみも、軽蔑の対象が消えた喜びのどちらも湧く事は無かった。
伝えるべき事を伝えなかった悔しさも、無力感も感じる事は無かった。

確かに存在したのは心の防衛、分厚い壁が聳え立つ、それだけだ。
この頃に私は双極性障害者として生きる事になったのは、間違えるはずもない。


父は遺産を残した。
借金は消えた。憎悪の存在も消えた。
形のない遺産は私の脳に、確かに刻まれていった。

悲しみは湧くことすら許されないものになった。
人間の、生存戦略としての感情の一つを私は失った。

哀情の喪失、それ自体に悲しみが湧く事すら無い。


私は陰鬱な音楽をしばしば聴く。


それはまるで自傷行為のように。
悲しみを湧き起こす儀式の様に。

正常な人間になりたい、と願い、
生きて、食べて、寝て。
ちっぽけな生存戦略を取り戻したいと願うのであった。

知識

知識は最大の武器である。

 

これは格言といったものではなく、

身をもって体感した身近な言葉だ。

 

私は自分の知識の偏りと不足に、

コンプレックスを抱いている。

 

自分の脳で処理しきれない知識は、

ぬるりと水を滑る油のように落ちていく。

 

概念を獲得しても口から溢れるのは平凡な言葉。

平凡な話者の平凡な世界観。

 

正規分布の山から見下ろしているはずでいて、

その実、降りることの出来ない自分への恥、無力感。

 

平凡さへの恐怖は一体どこから来るのだろうか。

 

恐らく平凡さではなく、考えを止めることが私は恐ろしい。

しかし、それと同時に考えを常に巡らせる事は、

双極の波を悪化させかねない。

 

羊使いに飼い慣らされる羊のように、

柵で囲まれた生き方をする程、私の性分は穏やかではない。

自分の思考を相手に委ねる程、忠誠心もない。

 

柵を壊すため、大草原を駆け抜ける手段としての知識が、

私は欲しいのだと思う。

 

それでも現実は悲しいかな、

柵は壊せたとしても、飼い慣らされた羊の習慣が身に染みて、

自由を獲得できないでいる。

 

大草原をいざ目の当たりにすると、途方に暮れ、

どこに行けば良いのか分からないのが現状である。

 

 

経験が知識を規定する事があるのなら、

知識が未来に積むであろう経験を規定する事もあると私は信じている。

 

 

自由を手に入れたいのであれば、

その目的のため、推論を働かせる土台としての知識が

やはり必要なのではないかと思う。

 

 

そんな信念を抱えながら、

今は私の脳を制御する小さな錠剤すら恨めしく、

しかし、

錠剤に頼らねば歪んだ現実に蝕まれる自分の脳の脆さに対峙した、気がした。

 

 

罪が背中を這いずり回るという表現は既にクリシェと化している。

 

しかし、私はこの使い古された表現を確かなものなのだと体感する。

 

 

蛇の這いずるような気色悪い感触。

 

 

一瞬にして体温が低くなり、冷や汗が出るかのような感触。

 

私はどの宗教も信仰してはいないが、因果応報という言葉の存在を当たり前のように信じ、存在していると思い込んでいる。

 

罪の後には罰が下るのだろうと、罪業妄想に苛まれる。

 

罪という言葉では大袈裟で余りに重い表現なのかもしれない。

それでも罪悪感という言葉で言い表すには、背負ってしまったものを形容するには軽すぎる。

 

 

とある曲がある。

 

 

私のよく聴く曲なのだが、また中々に宗教色が濃い。

 

その歌詞の中にこのような言葉がある。

 

The truth is only one "As you sow, so shall you reap"

 

 

私が自分の蒔いた種はどこまで芽を伸ばすのだろうか。そして私はその時刈り取る勇気を持てるだろうか。

 

きっと成長した先に咲くだろう花は曼珠沙華のような、別離を思わせる物にしかならないだろう。

 

いや、破滅、と言うべきか。

 

私はこの未来を想像することが出来ない。

ただただ恐れだけが支配する。

 

希望は、着地点は恐らく無い。

 

それでもこの破滅の先の新たな創造だけを期待し、今という時間の花弁を散らしていく事だけが唯一の方法なのかもしれない。

 

外を見渡すと視界にあるのはイチョウの木。

雨雫の重さに耐えられないイチョウの葉が、ただこぼれ落ちていた。

 

 

シャワーの蛇口を捻る。


冷たい水から徐々にぬるま湯、熱湯へと変わっていく。
肌は温度の変化を敏感に感じ取り、
瞬間的に脳が熱暴走したかのように感じる。


シャワーを頭からかぶる。


ニューロン間の電気信号が、火花が散るかのように感じる。
ほんの瞬間的な、強い光。
黒い煙が広がる。視界の三分の一を徐々に黒に染めていく。

いや、煙ではない。黒い文字の羅列、点滅の集合体である。
明朝体が頭を埋め尽くす。

鐘の音がする。
身体の底から畏怖を感じさせる低い、振動。
重くなる体。
底から響く鐘の音に引き寄せられる、抗えない膨大な力。

シャワーからこぼれ出るのは油。
使用済みの汚れたそれはドロドロドロドロと流れを止めない。
身体が汚れていく。髪が、腕が、セピア色に包まれていく。


刹那、石鹸の香りが現実へと引き戻す。


私はこの現象に名前を付ける事が出来ない。


匂い、それだけが信頼可能な現実であった。
幻聴、幻視、しかし幻臭は聞きなじみがない。


ユニットバスの中で蹲る。


この現実は幻を包含した概念。
脳が作り出した感覚、経験。


シャワーの浴槽の底に当たる音。


その音の永続性がここまで確かなものかと、
考えるに至った私の裸は油ではなく、
まぎれもなく水滴が肌に乗っていた。

言葉

言葉が好きだ。


人々が紡ぐ言葉が好きだ。音声、文字、媒体は様々ある。

外国語が好きだ。
一つの言語の総体、体系のネットワークを眺め、潜るのが好きだ。


しかし、
私はこの言葉に対する好きという感情に、
論理的な根拠を与えることが出来ないでいる。


何故私は言葉が好きなのだろうか。
好きと言う事実に対する因果が、どうにも私には上手く説明が出来ない。


言葉は世界にアクセスする手段であるから。
どうもこの説明が一番腑に落ちるように思われる。


例えば、
文学という世界にアクセスするのにも言葉は必要である。
そして、外国という物理的に離れた国にアクセスするにも言葉は必要である。

どこをとってもマクロな世界、ミクロな世界にもあらゆるネットワークは存在する。

私は膨大な宇宙空間のように広がり続ける世界に繋がる手段として、
言葉が好きなのだと感じる。


言葉は私の身体の延長である。
そう、言葉は私にとって身体の一部なのである。


音声を作り上げるプロセスとしての音韻論といった複雑なものではなく、
至ってシンプルな答えだ。

私はこの身体の一部を自由に動かし、限界に挑戦していきたい。
言葉という部位を様々な世界に触れさせ、
他の感覚で以ってその世界を体験したい。


言葉は自由だ。制約が存在したとしても。
言葉は存在を構成する。名もなき物に遭遇したとしても。



しかし、
どうやら現代において語学の価値は減少傾向になる事が予測されている。
AIの発達による自動翻訳機への期待がこの説を支持しているらしい。


それでも私は言葉について考え続けるだろう。


10年、20年、50年経ったとしても、
私は言葉に向き合う事でしか、
自分の存在と世界の繋がりを体感する事が出来ないのだろう。

そして言葉で以って私という存在を表現する事しか出来ないのだろう。

寒い。

 
久々の雨。


傘を持つ手の甲には、悲しくも雨粒が乗っている。

 

私の体調は天候にいとも簡単に左右される。
天気予報よりも、私の体調で天気が予測できるかのようだ。

 

それでも屋根に雨が当たる音は好きだ。

豪雨の激しい音には恐怖を覚える事はあるが。

 
雨にまつわるものが好きだ。

傘。長靴。レインコート。

あくまで鑑賞する側にすぎないが。


寒い。

 
靴に雨が染みる。靴下までも侵食する。
末端神経を冷やす。寒さが加速する。


太陽は見えない。暗い。


雨が斜めに降っているのが分かる。
自動車の彩度の高い赤いライトが目に染みる。
 
木から垂れる雫の大きさと、その冷たさを敏感に感じ取る肌。

ビニール傘の骨組みが折れている。無造作に捨てられた、使われたモノ。


夜も雨はやまない。


雨の音が聴覚を刺激し続ける。


いつになったら陽の光を再び浴びられようか。

それが一日後でも、数日後でも、
晴れた暁には、
光合成をし続ける植物の様に、太陽に向かって外に出よう。