双極性Ⅱ型の呟きの行く先

双極性障害Ⅱ型の元早稲田生。何をこなすのも下手。

罪が背中を這いずり回るという表現は既にクリシェと化している。

 

しかし、私はこの使い古された表現を確かなものなのだと体感する。

 

 

蛇の這いずるような気色悪い感触。

 

 

一瞬にして体温が低くなり、冷や汗が出るかのような感触。

 

私はどの宗教も信仰してはいないが、因果応報という言葉の存在を当たり前のように信じ、存在していると思い込んでいる。

 

罪の後には罰が下るのだろうと、罪業妄想に苛まれる。

 

罪という言葉では大袈裟で余りに重い表現なのかもしれない。

それでも罪悪感という言葉で言い表すには、背負ってしまったものを形容するには軽すぎる。

 

 

とある曲がある。

 

 

私のよく聴く曲なのだが、また中々に宗教色が濃い。

 

その歌詞の中にこのような言葉がある。

 

The truth is only one "As you sow, so shall you reap"

 

 

私が自分の蒔いた種はどこまで芽を伸ばすのだろうか。そして私はその時刈り取る勇気を持てるだろうか。

 

きっと成長した先に咲くだろう花は曼珠沙華のような、別離を思わせる物にしかならないだろう。

 

いや、破滅、と言うべきか。

 

私はこの未来を想像することが出来ない。

ただただ恐れだけが支配する。

 

希望は、着地点は恐らく無い。

 

それでもこの破滅の先の新たな創造だけを期待し、今という時間の花弁を散らしていく事だけが唯一の方法なのかもしれない。

 

外を見渡すと視界にあるのはイチョウの木。

雨雫の重さに耐えられないイチョウの葉が、ただこぼれ落ちていた。

 

 

シャワーの蛇口を捻る。


冷たい水から徐々にぬるま湯、熱湯へと変わっていく。
肌は温度の変化を敏感に感じ取り、
瞬間的に脳が熱暴走したかのように感じる。


シャワーを頭からかぶる。


ニューロン間の電気信号が、火花が散るかのように感じる。
ほんの瞬間的な、強い光。
黒い煙が広がる。視界の三分の一を徐々に黒に染めていく。

いや、煙ではない。黒い文字の羅列、点滅の集合体である。
明朝体が頭を埋め尽くす。

鐘の音がする。
身体の底から畏怖を感じさせる低い、振動。
重くなる体。
底から響く鐘の音に引き寄せられる、抗えない膨大な力。

シャワーからこぼれ出るのは油。
使用済みの汚れたそれはドロドロドロドロと流れを止めない。
身体が汚れていく。髪が、腕が、セピア色に包まれていく。


刹那、石鹸の香りが現実へと引き戻す。


私はこの現象に名前を付ける事が出来ない。


匂い、それだけが信頼可能な現実であった。
幻聴、幻視、しかし幻臭は聞きなじみがない。


ユニットバスの中で蹲る。


この現実は幻を包含した概念。
脳が作り出した感覚、経験。


シャワーの浴槽の底に当たる音。


その音の永続性がここまで確かなものかと、
考えるに至った私の裸は油ではなく、
まぎれもなく水滴が肌に乗っていた。

言葉

言葉が好きだ。


人々が紡ぐ言葉が好きだ。音声、文字、媒体は様々ある。

外国語が好きだ。
一つの言語の総体、体系のネットワークを眺め、潜るのが好きだ。


しかし、
私はこの言葉に対する好きという感情に、
論理的な根拠を与えることが出来ないでいる。


何故私は言葉が好きなのだろうか。
好きと言う事実に対する因果が、どうにも私には上手く説明が出来ない。


言葉は世界にアクセスする手段であるから。
どうもこの説明が一番腑に落ちるように思われる。


例えば、
文学という世界にアクセスするのにも言葉は必要である。
そして、外国という物理的に離れた国にアクセスするにも言葉は必要である。

どこをとってもマクロな世界、ミクロな世界にもあらゆるネットワークは存在する。

私は膨大な宇宙空間のように広がり続ける世界に繋がる手段として、
言葉が好きなのだと感じる。


言葉は私の身体の延長である。
そう、言葉は私にとって身体の一部なのである。


音声を作り上げるプロセスとしての音韻論といった複雑なものではなく、
至ってシンプルな答えだ。

私はこの身体の一部を自由に動かし、限界に挑戦していきたい。
言葉という部位を様々な世界に触れさせ、
他の感覚で以ってその世界を体験したい。


言葉は自由だ。制約が存在したとしても。
言葉は存在を構成する。名もなき物に遭遇したとしても。



しかし、
どうやら現代において語学の価値は減少傾向になる事が予測されている。
AIの発達による自動翻訳機への期待がこの説を支持しているらしい。


それでも私は言葉について考え続けるだろう。


10年、20年、50年経ったとしても、
私は言葉に向き合う事でしか、
自分の存在と世界の繋がりを体感する事が出来ないのだろう。

そして言葉で以って私という存在を表現する事しか出来ないのだろう。

寒い。

 
久々の雨。


傘を持つ手の甲には、悲しくも雨粒が乗っている。

 

私の体調は天候にいとも簡単に左右される。
天気予報よりも、私の体調で天気が予測できるかのようだ。

 

それでも屋根に雨が当たる音は好きだ。

豪雨の激しい音には恐怖を覚える事はあるが。

 
雨にまつわるものが好きだ。

傘。長靴。レインコート。

あくまで鑑賞する側にすぎないが。


寒い。

 
靴に雨が染みる。靴下までも侵食する。
末端神経を冷やす。寒さが加速する。


太陽は見えない。暗い。


雨が斜めに降っているのが分かる。
自動車の彩度の高い赤いライトが目に染みる。
 
木から垂れる雫の大きさと、その冷たさを敏感に感じ取る肌。

ビニール傘の骨組みが折れている。無造作に捨てられた、使われたモノ。


夜も雨はやまない。


雨の音が聴覚を刺激し続ける。


いつになったら陽の光を再び浴びられようか。

それが一日後でも、数日後でも、
晴れた暁には、
光合成をし続ける植物の様に、太陽に向かって外に出よう。

今日だけで2回目の更新になる。

というのも、何かをしていないと辛いのが現状だからだ。

 

 

ここ2週間で私の心身は大幅に削られた。

 

物事が考えうる最悪の結末を迎えたからである。

 

 

恐怖が私の心を支配する。

 

 

辛い。それに加えて少々の孤独。

辛い。自責の日々。

辛い。罪悪感を誰に認めてもらえようか。

 

 

もう望んだ結末を取り戻す事は出来ない。

 

後悔。落ち度。何もかもが棘に見える日常。

 

 

今日は風が強い。

日中の柔和な日差しは、日没と共に冷たい風へと変貌する。

 

冷たい風は私の居場所とも言える喫煙所にも吹く。

吸殻、土、落ち葉、全てを攫っていく。

 

今の感情が、風に攫われればどれだけ良い事か。

底のない、永久機関のようなフラッシュバックと負の感情がこびり付いて離れない。

 

 

それでも私は生きたい。

 

 

ただ、生きたい。

 

今はその思いだけが私を守る鎧なのだろうと、情けない、継ぎ接ぎの不格好なモノをただただ見つめている。

 

 

 

肉※閲覧注意

私の目の前には二つの袋がある。

猪と鹿の死体が入ったビニール袋。
それも何重にもビニールテープで巻かれていて固定されている。
袋の角には赤黒い血が溜まり、内側には水滴が張り付いている。

生きていたものの最後のなれの果て。
それまで生きていたことの証がビニール袋を見るにつれて想像させられる。

荷台に乗せる際には、もう冷え切った死体であるのに、
生温かさの錯覚が脳を支配する。
足の輪郭、毛皮の硬さ。
生が留められた形と死の触感。


穴を掘る。


まるで殺人の隠蔽をするかのような罪悪感と対峙するが、
これが人間であれば、この程度の罪悪感で済まないだろう、
と恐ろしい想像をする。

しかし現実、
この大きさの猪と鹿であれば10歳程度の人間と重さは変わらないのだろうと、
猟奇的な考えは止んでくれない。


穴を掘る。


何とも名の分からない植物は、こんな深くまで根を張るものなのかと驚く。
ムカデが掘り出される。土の色の変わり目が見える。

獣たちに適当な大きさの穴を掘ったところでナイフを取り出した。

およそこの国の日常では馴染みのない、
銀色の、錆一つないスラリとしたサバイバルナイフ。

ビニールを破る。
この程度の大きさのナイフでは何度も切り込みを入れなくては。
ビニールの葛が空中に舞う。徐々に蠅が集る。

破られたビニールから出てきた猪は、
生きていた時の姿とほぼ変わらぬ姿であった。
唯一違うのは、腹から臓物があふれ出していた事である。


あの黒い臓物は何かしら、等考えている内に腐敗臭が空気中に広がった。


マスクを通しても鼻に届く臭いに一瞬吐き気を催す。
ナイフの傷で腸が破れたのだと感づく。
それでも銀色のナイフを猪の腹を刺す。何度も、何度も。

臭いは消えない。蠅が本格的に集りだす。耳が蠅の羽音を捉える。

死の処理をした後、猪の死体に土を被せる。
臭いを物理でもって隠すかのように。

次には鹿を埋めなくては。そうして私は再び穴を掘った。

鹿の腐敗臭はそこまで空に広がらなかった。
破ったビニールから出てきたのは千切れた頭と胴体。

火かき棒で頭をひっくり返すと、また土を被せた。

さよなら、猪と鹿。
お前たちは時間をかけて、バクテリア、ウジに食われ骨になるだろう。
そして土の栄養となり、植物の糧となるだろう。

破れたビニールの角には依然と黒くなった血がたまっていた。

本来なら雨季の低気圧にやられて、調子が悪くなる6月。そして7月。

 

今年は降水量が少ないのか、曇り空は続くものの、雨の冷たさには触れずに済んでいる。

 

霧吹きのような小雨に対して、傘をさす者、ささない者がキャンパスを闊歩している。

私は傘を持ちたくない頑固さがあり、後者になるのだろう。

 

この時期は体調が崩れがちで、文字を読めなくなる事等ザラにあるが、今年はそんな状態に陥らずにいる。

 

本を読む事は大学に入って意識的にするようになった。いや、もっと前の時代にも興味の惹くものにだけは手に取るようにしていた。

 

しかし、大学生となって変わった唯一の点は、幅広い読書をするようになった事だ。

 

心理学を専門にしながら、哲学、社会学、教育学といった近似領域のものから、音楽理論に至るまで、趣向の幅は広がった。

 

世の中に本が溢れているのはもちろん、その数だけ思想が溢れているのは興味深い。

 

人間は本を読む。目的は何だろうか。

いや、きっと読者の数だけその目的も楽しみ方もあるのだろう。

 

私は一体何を楽しみ本を読むのか。

その問いに対してはきっと、私の知識に対するコンプレックス、そしてある種の強迫観念かもしれない。

 

それでも、やはり読書は楽しい。

 

孤独も気になる事のない、暇な持て余し方は今の内から確立しておくに越した事は無いだろう。